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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一二

今回は古代・明治・大正・昭和の島原半島にまつわる歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求してみましょう。
皆さんも一緒に考えてみてください。では、問題です。

問題はコチラ

Q1 大量の遺物が発見された縄文時代の重要な遺跡がある島原市の地区とは?
Q2 江戸時代が終わり、その役目を終えた島原城の解体が始まったのは西暦何年?
Q3 大正11年に島原半島を襲った大地震の際、住民の不安解消のために活動した地震学者の名は?
Q4 日米友好の証である青い目の人形が保管されている市内の小学校はどこ?

A1 島原市礫石原町 ― 礫石原環状石組遺構 ― 島原市礫石原町 ―

戦後、入植が始まり開墾が進むと大量の遺物が発見され、縄文時代の重要な遺跡であることが明らかになった。
ここは、雲仙岳の北東に広がる標高200~300mの台地上にあって、さらに有明海へなだらかな平原が広がっている。
雲仙岳を取囲むように、国見町百花台、吾妻町弘法原、深江町山の寺など同時代の遺跡と結びついていることが分かる。
縄文時代初期の押型文土器や鍬型石器、板状偏平石器などが発掘されて、畑作文化の始まりが想像される。
同時に、2m四方の環状石組遺構が発掘された。
これは当時の埋葬施設の中心をなすものである。
付近から合わせカメ棺4基と集積墓10基、焼き灰の集積の存在が確認されており、埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺構といわれる。

礫石原環状石組遺構

 

A2  871年― 島原城解体 ― 島原市城内一丁目 ―

廃藩置県で無用の長物となった島原城は、1871(明治4)年から民間へ払い下げられた。
「なにせ築城250年もたっているので年々の修理経費も少なくなく、廃棄して無用の雑費を省き、実用の軍資に備えたい」と、政府への上書が認められ、入札払いが始まった。
先ず大手門が解体され、旧御殿や諸道具が入札に付された。
とうとう5層の天守閣も1876(明治9)年には解体されてしまう。
この払下げ代金は、城郭地所7町4反で120円、建物770坪で175円、立ち木1400本余で100円、錬兵場1町8反で110円、砲台場2反余で14.5円の合計519円50銭であった。
250年の間にはいろんな出来事があった。
島原の乱時には農民軍が押寄せて激戦が続いたが落城を免れた。
島原大変では何度も大地震に見舞われ、大津波が外郭石垣まで打ち寄せたが安泰であった。
しかし時代の波には抗することが出来ず廃城となった。
その後約百年間、本丸と二の丸の外郭は残り、石垣と堀だけの裸の城であった。
観光ブームになり、1964(昭和39)年天守閣が復元された。

江東寺に移築された島原城北門(改修あり)

A3 大森房吉 ― 大正の島原大変 ― 北有馬町ほか ―

1922(大正11)年12月8日未明、大地震が島原半島南部を襲った。
そのため北有馬村(北有馬町)で死者17人、近隣7村合わせて37人が圧死した。
重傷17人、軽傷22人、住家全壊194棟、半壊661棟、小屋を含めると1400棟余りが被害を受けた。
その日は強い地震が3度起こり、震源は北有馬・大手川河口から、小浜・金浜、千々石灘へと移動して、余震が千回以上も続いた。
人々は寛政の大地変の再来ではないかと心配して、高台に避難するなど不安な日々を過ごした。
地震学者の大森房吉博士は、「温泉岳の噴火は考えられぬ。
寛政4年の眉山大崩壊の惨状は繰り返すことはなかるべし……」との見解を発表。
さらに被災地を調査して、島原町などで講話会を開いて不安解消に努めた。
島原半島は雲仙火山によって造られているから、火山活動や地震は避けられない。
繰り返し被害を受けるが、お山・普賢さんと共生していかねばならないのである。
【島原新聞「大正11年記事」】【松尾卓次「島原大変の跡を探して」】

大地震後、大森博士の見解を伝える当時の島原新聞

A4 島原市立第一小学校 ― 青い目の人形 ― 島原市城内一丁目 ―

2003(平成15)年春、長崎瓊子・青い目の人形展が開かれて大きな反響を呼んだ。
今なお戦争が絶えない国際情勢の中で、70年もの昔、日米友好の人形を交換して、平和の大切さと国際親善の重要性を訴えたことを再認識したのである。
その青い目の人形の一つが島原市立第一小学校に保存されている。
それを見るたびに、あの狂気の時代を良くぞ生き残ったものだと感心する。
アメリカから1万2000体の青い目の人形が日本へ渡り、当時の島原町には4体の人形がやってきた。
1927(昭和2)年5月18日に島原3つの小学校と幼稚園が合同歓迎会を開いて温かく迎えた。
その後、日本から長崎瓊子など答礼人形が海を渡ったが、同様に島原では合同送別会を開いている。
しかし、この運動の提唱者であるギューリック博士や日本の推進者であった渋沢栄一たちの願いもむなしく、日米開戦。
人形といえ敵国人だと竹槍で突かれたり、火あぶりにされて、ほとんどが失われてしまった。
長崎県下214体も贈られた人形も島原と平戸にわずか2体しか残っていない。
心ある教師の働きで、雛人形と共に保存されたこの人形の青い瞳は、今再び平和の大切さを訴えているのである。
【島原市立第一小学校「学校沿革誌」】【島原新聞「昭和2年記事」】

青い目の人形リトル・メリー

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其一一
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の十

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の九
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の八

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