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松尾先生の島原の歴史50選「第3回 松平時代」

1.松平忠房

松平氏は、いわゆる松平18家の一つで、深溝松平と称した。
先祖は徳川家康に従って各地で連戦して、厚い信頼を受けていた。
1669(寛文9)年、高力氏に代わって松平忠房が入封した。
その時、島原領3万8300石に新たに豊前宇佐郡48村1万3540石と豊後国東郡50村1万4050石を加増されて、6万5900石余となった。
この時、将軍家綱は「島原は難治の地であるから人を選んで移した。
その意をよく体して忠勤するように」と、命じられた。
また老中から「西国を見て異事があれば即、書状をもって報告せよ」と特命があり、「参府前や帰封の後、及び阿蘭陀船の出港時には必ず長崎へ行って監視し、自らその実情を書にして官郵で伝えよ」とも指示された。
松平氏は領内統治だけでなく、天領長崎の監視役になり、九州の隠し目付ともいわれ、外様大名が多い西国に打込まれたクサビの役目を果たしていた。
島原領は、有馬氏に続いて松倉氏2代、高力氏2代とめまぐるしく藩主が代わったが、松平氏の入封後明治維新まで約200年間(宇都宮戸田氏との交替勤務25年間があるが)安定した統治が続いた。

<松平氏系図>忠定―好景―伊忠―家忠―忠利― (島原初代) 忠房―忠雄―忠俔―忠刻―忠祇―忠恕―忠馮―忠侯―忠誠―忠精―忠淳―忠愛―忠和

2.松平文庫

島原図書館には1万冊余の和漢の書が伝えられている。
これは初代島原藩主松平忠房が広く収集した書物で、松平家の御文庫として伝えられてきた。
それを現在も引き継いで「松平文庫」として保存活用している。
今日島原藩政史や日本文学などの研究に大きな役割を果たしている。
松平氏は文雅を愛でる武将として知られ、忠房は天下の貴重本の収集に力を注いだ。
そして「尚舎源忠房文庫」を創設した。
さらに7代忠馮公は藩校・稽古館を開き、江戸の儒学者岩瀬行言を招いて教授とした。
これらの蔵書を活用して藩学の基礎を築いた。
明治維新で島原藩が解体された後も松平家の遺産として管理・保管されてきた。
いくらかの図書類が散逸したが、旧家臣の子孫らの働きで市が管理することになり、1994(昭和39)年、松平家から島原市に寄贈された。
貴重な本も多く、『伊勢物語聞書抄』(1551年)や『源氏物語』(1602年)、また『蜻蛉日記』『夜寝覚』『紫日記』『光源氏物語本事』など、今日でも多くの研究者が訪れる。

3.雲仙岳噴火の歴史

雲仙火山群は何十万年もの長い歴史をかけて、島原半島を形成した。
50万年前に古期雲仙火山が活動して、東西20km、南北25kmの広範囲に溶岩と火山灰を降り積もらせた。
これが島原半島の基盤となる。
10万年前になると、新規雲仙火山群が活動して、野岳火山や妙見岳火山、普賢岳火山などが生まれた。
その野岳火山は千々石町吹越から有家町湯河内まで溶岩を積もらせた。
さらに妙見岳火山が噴火して、その崩壊壁内に普賢岳が出現して、それは今も活動している。
一番新しい火山だから、有史以来三度その記録が分かっている。
その中で一番古い記録が1657(明暦3)年で、山頂から溶岩が流出している。
これが弥右衛門焼きといわれ、その噴出物を古焼といって今も普賢岳山体に残っている。
しかし高力氏の統治時代で、その記録があまり残されていないから詳しいことは分からない。
1663(寛文3)年、火口跡から泥流が流出して水無川が氾濫、麓の村で30人余が死亡した。

4.島原大変

次の噴火が寛政の大地変で、大被害をもたらすのである。
1792(寛政4)年4月1日夜、島原城下町の裏にそびえる眉山が崩壊して町を埋め尽くした。
死人1万0184人、本家流失1万0665軒、破損本家2932軒、破損田313町余、破損畑115町余、破損塩浜34町余、船530艘と伝える。
同時に発生した大津波が領内の村むらや対岸の熊本・天草を襲い、1万5000人が流死した。
これを島原大変肥後迷惑という。
前年から島原地方には地震が続き、年が明けると普賢岳が噴火を始める。
流れ出した溶岩は山を下り、谷を埋めて杉谷村千本木へせまった。
そして、この崩壊である。
この時眉山の6分の1にあたる4.4億?の土石が崩れ落ち、大手御門前から南の町全体が厚い土砂に覆われた。
この時発生した津波は高さ10mに達し、北は山田村(吾妻町)から南は南有馬村(南有馬町)まで22町村に被害をもたらした。
日本災害史上1,2に挙げられる大災害に見舞われたのである。
藩庁は被災民の救済へ乗り出し、藩米を払い下げたり、被害を受けた村へ総額59貫15匁を下付した。
村では被害田畑1反あて銀6匁7分、家の間数1間あたり銀8匁5分と分配した。
被害町家には1坪あたり13匁を下付した。
幕府から特別に1万2000両の御手当金を借り受け、また大坂商人や領内の豪農や豪商から多くの借財を得て、これらの資金で復興に務めた。

5.城下町の発展

島原の新領主になった松倉豊後守重政は、戦国大名の意気込みをもって乗り込み、大規模な築城事業を始めた。
同時に統治の根拠地として城下町を整備する。
古町、新町、三会町を置き、それぞれ中村孫右衛門、隈部杢左衛門、姉川伊兵衛を別当として町人を管理させた。
その下に4~5人の乙名がいた。
松倉時代の人口4851人であった。
今でも中村家は存続し、その屋敷門が残る。
木造瓦葺きで入母屋造りの堂々とした門構えは、間口10.1m、奥行き3.1m、欅材の門扉は幅2.9mと、島原町人の勢力を示している。
島原大変で城下町の大半が壊滅、人口も5000人余が流死する。
しかし生き残った町人たちは直ちに復興に乗り出した。
その年の8月には「棹入れ」を始めて、地所を確定した。
11月から白土大池の排水を始め、再び町を復旧できた。
それで大変前とほぼ同様の町が再現した。
松島や天の島などを取り込んで海岸線は大きく東へ移動した。
また土砂で埋まった湊の入江は消滅し、その跡へ新堀町(中堀町)と江東寺、さらに東に弁天町が生まれた。
湊の機能は大手下から今村名へ移り、この入江を取り囲んで蛭子町・津町・舟津(有馬・浦田・船津・白土)などが出来た。
城下町が東へ南へと広がっていった。
さらに明治になって湊新地が出来、島原湊の中心として賑わう。

6.稽古館と済衆館

島原藩校の始まりが1793(寛政5)年開かれた稽古館で、その後、医学校の済衆館も1821(文政4)年に開校した。
初代島原藩主・松平忠房は、「文武両道こそ藩の基盤である」と、自ら講書を開き、家臣にも聴講を勧めていた。
またいろんな書物を集めて『尚舎忠房文庫』を作り、それが今も伝わる『松平文庫』で、1万冊を収蔵している。
この好学の遺風が代々伝えられて、藩校となって実現した。
「自今、士卒族の男子歳8歳より入校、学に就くべし。
業に奉仕する者は勤務の余暇に登校し、会読、講義を聴講すべし」との布達が出された。
学科は徳行、経学、文学、史学、国学、律学、兵学、医学、天文学の9科があった。
稽古館はその後1834(天保5)年には校地1800m2、建物490m2へと拡張した。
通学生70~80人、教師37人、事務方7人であった。
島原の教育のルーツはここから始まったといって良いほど、その後の教育に大きな影響を与えた。
さらに充実させ、時勢に適用した医学の研究と修業が必要と、藩主の別邸・常盤御殿内に済衆館を独立させた。
医者の養成だけでなく、藩医や町・村医の修業の場でもあった。
また医鑑制度を設けて、町医や村医の医療に関する取締りにあたった。
1843(天保13)年にはシーボルトに学んだ賀来佐之(佐一郎)を教授に招いて、実証的な西洋医学を取り入れている。
人体解剖の実施、種痘を導入、薬草園の経営などとハイレベルの藩校であった。

7.ハゼ ・木ロウ物語

島原地方の山野の初冬を彩るのがハゼ紅葉である。
鮮やかな赤で一面を染める。
ハゼ・木ロウは藩政時代から島原地方を支えた一大地場産業であった。
松倉重政が入封した頃から領内にハゼを栽培するようになり、1744(延享1)年には、忠刻藩主が「領内にハゼ5万株を植えさせ、後にまた5万株を増殖さす」とあり、島原藩でも本格的にハゼ栽培が行われて、木ロウの生産が高まった。
さらに櫨方役所を置き、専売制を敷いて藩財政の増収を図った。
特に島原大変後は藩財政の危機の克服と領内経済成長のために、ハゼの増産が打ち出されて、ハゼの実を100万斤買い上げる体制となった。
このころ高品質の「福ハゼ」が発見、改良されて生産量が益々増加した。
1796(寛政8)年には、「およそ高平均年400万斤のつもり、このロウ56万斤、、、、」ともくろんで、大坂へ生ロウ40万斤余り送り、その代銀年間5000両から7000両を受け取るようになっていた。
これらの益金が島原大変後の復興資金に活用され、藩財政、ひいては領内産業を伸ばし、村と農民を豊かにしていくのである。

 

(次回は「第4回 江戸期の島原)

 

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次の島原歴史探訪」放送中!

松尾先生

過去の記事はこちら。
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

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