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島原半島観世音三十三霊場巡り4「十九番霊場~二十三番霊場」

〈 初めに 般若心経 解説② 〉

~まず、一緒に読みましょう。
その後で解説をします。
舎利子/色不異空/空不異色/色即是空/空即是色/受想行識/亦復如是/舎利子/是諸法空相/不生不滅/不垢不浄/不増不減/是故空中無色/無受想行識/無眼耳鼻舌身意/無色声香味触法/無眼界乃至無意識界

十九番霊場「瀬高観音」(口之津町町名東大泊)

前回から1月しか経っていないが、3月ともなるとやはり春だ。
ぽかぽか天気となった。
いい天気の中の観音様巡りとなった。
観音巡りも後半部となった。
残りの観音様もあと15カ所で、これからが大変。
あと旧11町を巡らなければならない。
当然のことだが、三十三霊場は等間隔に配置されている訳ではない。
国道や県道沿いだけでなく、山道も多い。
今から歩く距離がだんだん長くなるしハードなコースである。
島原から口之津に集まるために一時間以上かかるので、出発が9時半となる。
早速、最初の瀬高観音まで2.6キロ歩く。
口之津港沿いにだ。
口之津はその名が示すように、有明海への出入り口に開かれた津(湊)である。
またその西側には唐・天竺があり、古代から文化の受入口となったところ。
特に南蛮貿易時代には世界に開かれた港で、海外にも広く知れ渡った地であった。
しかしそれも閉されて、江戸時代には沿岸航路の拠点としてその名は伝えられていく。
「湊は長さ十二丁(1000m)、横八丁(700m)で深さ七尋(13m)。
船掛り場所は廻船千艘分あり」と、口之津港の重要性は藩記録にも書かれていた。
明治になると、三池炭の輸出港として再び世界へ開かれた。
この口之津と海との関わりを今でも伝えているのが、口之津町歴史民俗資料館、別名「海の資料館」である。
湊とともに栄えてきた歴史と、海に活躍した口之津の人々の生活がよく分かる資料館だ。
近くまで来たが、今回は見学を遠慮しよう。
そういう土地だから、湊の入り口に観音堂は立つ。
ずっと以前より海上安全の祈願所であった。
昔から時化に遭い、大海で方角を見失ったときに、誠心をもって観音様を念ずれば、直ちに陸地が現れて火を見つけることが出来たという。
それで、「火見せの観音」ともいい、船乗りには霊験あらたかな観音様であった。
それでたくさんの船絵馬が、奉納されて御堂に掲げられていたが、改修時にこの下にある「海の資料館」の方へ移され、そこに展示されている。
瀬高観音信仰の広がりがよく分かる貴重な資料である。
御本像は十一面観音尊で、御殿造りの厨子の中に安置されている。
十二番・堂山霊場(有家町堂崎)と同様に行基菩薩が造った観音像八体の一つといわれるが、有馬氏時代や島原の乱を経ているので、その辺はどうかな。
この伝承でも分かるように、堂山観音同様に古くから人々の信仰を集めてきたところである。
その霊場も島原の乱で荒廃した。
高力忠房島原藩主が寛永十九(1642)年に寄進して、霊松山潮音院として開く。
再び、船乗りたちの信仰を集めていく。
御堂は改修されてすっかり新しくなり、尼僧もいらっしゃった。
古い歴史を留める石仏や石塔が境内に保存されていて、地域の人たちの信仰の強さを示している。

 

二十番霊場「巌吼庵観音」(加津佐町水下浦名岩戸山)

つぎの加津佐まで5キロあるからバスを利用しようと、バス停へ行ったら、なんと一時間以上も待たなければならない。
歩くとなるとこれまた一時間余りかかるし、すっかり計画が狂ってしまう。
今さらながら交通事情の悪さを知る。
今、島原半島内も過疎化が急速に進んでいる。
シマテツ南目線が廃止され、それでバス便も減らされているのかな。
仕方がない、と車巡礼に切り替えだ。
スイスイと進み、昼前には着いた。
岩戸山へと上る。
二十番霊場の巖吼庵で、ここは立派な観音堂に生まれ変わっていた。
平成13(2001)年10月4日夕刻、火災で全焼。
土台石と石段だけ残してすべて焼失し、「島原半島観音霊場第二十番札所」の石柱だけが寂しそうに立っていた。
それで巌吼寺本堂に合祀され、お参りさせてもらったが、御本尊も焼失したから、写真を拝ませてもらっていた。
立派な十一面観世音像であったのに、火災に遭われるとはね、おかわいそうに。
それが今回訪れたら見事に修復されていて、20年の年月がかかったが、良かった良かったよかった。
早速、御堂で般若心経を上げさせてもらう。
ここ巌吼庵は大智禅師の草庵から始まり、以来霊場となっていた。
有馬氏の仏教弾圧時代や島原の乱で破壊され、その後、雲山愚白師が寛永二十(1643)年再建した。
岩戸観音は妙覚禅尼が寛文十一(1672)年復興した。
再び全山霊場となり、信仰と修行の中心地となる。
それで藩政時代から全山が保護されていて、今では国の天然記念物に指定され、亜熱帯植物など三百種の樹木が山を覆っている。
海抜90mの座禅岩まで登山だ。
大智禅師に習い、座ってみる。
眼下に加津佐の町と天草、東シナ海が広がる。
吹く風のさわやかで、ハイの気分になり、これを座禅効果というのか。
境内にはその古い歴史を示す参道のめがね橋、サルの墓、本堂に掲げられている「法皇殿」の大額、庫裏の魚板など見所いっぱい。
洞観音もあるが行こうかと誘うが、岩場を往復しなければならぬと聞いて、「もうよか!」。
ここで昼食とする。

二十一番霊場「一乗院観音」(南串山町京泊名水の浦)

車巡礼に切り替えたので楽だな。
本来ならバスで南串山町水の浦まで行き、歩いて観音堂までということだったが、下の県道まで横付け。
六地蔵に迎えられて参道を上り、二十一番霊場・一乗院へ進む。
お寺は京泊の湊を見渡せる岡の上にあり、御堂の中に観音様が祭られている。
黒光りする歴史を感じられる十一面観世音像である。
全員が広い御堂に正座してお参り。
般若心経が響く。
だんだん読経も大きくなり、お祈りに気持ちがこもってきたようだ。
このお寺は古い歴史を持つ。
温泉山一乗院といって、その開山は行基菩薩。
大宝元(701)年に温泉(雲仙)に開いた満明寺に始まる。
最盛期は千坊を有していたが、有馬氏の仏教弾圧や島原の乱により焼失、荒廃する。
乱後入国した高力忠房藩主は、領国の復旧と人心の安定のために力を尽くす。
そこで寺社の復旧をはかり、ここ温泉山には遠州(静岡県)浜松の鴨江寺から招かれた弘宥和尚によって満明寺が復興した。
そして島原藩主の祈願所となった。
しかし明治維新で島原藩は解体し、島原藩主の祈願寺としての保護もなくなり、また廃仏毀釈の波でお山を下り、この地へ移転して法明を灯し続けた。
今、雲仙には満明寺が独立して続いている。
長い歴史のなかではいろんな法難があるものだ。
境内には四国八十八所霊場に模した石仏がずらりと並んでいる。
檀家の人たちが奉納したものであろう。

 

二十二番霊場「山畑観音」(小浜町北串山山畑)

巡礼計画では、ここは山上で島原街道から相当離れているから後回しにとしていたが、車巡礼なので訪れる。
広い串山のジャガイモ畑の中を山へ向かって進む。
広域道路を越してさらに山中へ行ったら、そこに観音様が祭られている。
今では車でスイスイと行けるが、その昔は歩かねばならなかったので大変だったろう。
一乗院から7キロもあって、おまけに山道ときている。
今まで巡ってきた霊場は、ほとんどが島原街道沿いだったが、ここから先は街道を大きく離れて雲仙山地や山麓に散らばる。
訪れた観音堂は、山畑集落のはずれ、おまけにグリーン道路を横切って、さらに山の中にぽつんと置かれていた。
なんと素朴な霊場であることよ。
ブロックを四段、三方に重ねたその上にトタン屋根を葺き、その中に四体の石仏をお祭りしている。
観音堂にしてはあまりにもお粗末すぎるね。
当然のことながら御本尊の聖観世音様も石に彫られたもので、他の観音様とはひと味も二味も違うまた別の趣がある。
しかし昔はみんなこんなものであったろう。
それぞれその里人が観音様にお祈りの所であったから、建物や観音様がどうのこうのというものではなかった。
お祈り出来る場であればよかったのだ。
『観音経』には、「一心に観音の名を唱えれば観世音尊がいろんな姿に変わって、どんな私たちの悩み、苦しみも見逃すことなく救ってくださる」とあるそうで、観音様に願をかけると何でも叶えてくださるそうだ。

それで、粗末な御堂であってもひたすらお祈りできる場があればいいのだ。

二十三番霊場「清水観音」(小浜町木指)

小浜木指の町はずれの山麓にある。
ここの岩陰から水が湧き出ていて、水汲み場や洗い場があり、それが集落の水源になっている。
水源から少し上ったところに観音堂が建っていて、その名は清水神社。
参道には鳥居が立ち、大きなしめ縄が巻かれている。
これまた神仏混淆の名残である。
ここではいつの時代からか水神様を祭り、そこへ観音様の合わせ祭ったのだろう。
明治初年に強引に神仏分離がなされたが、人々の信仰までは変えられなかったようだ。
こうして神も仏も一緒に祭られている。
御堂の中には、正面に木の厨子入りの聖観世音が祭られ、側には御幣が置かれ、不動明王も祭られている。
日本人は宗教に寛容だといわれるが、それもいいのではないか。
わが国には固有の神があった中に、6世紀半ばに仏教が渡来した。
神と仏・菩薩とを同一視し、両者を同じ所に配祀して信仰することが始まった。
本地垂迹説では、神は仏が人々を救うために姿を変えてこの世の中に現れたとするし、平安時代から鎌倉時代にかけてすべての神社の本地仏が定められるほど盛んになった。
天照大神は大日如来だともいっていた。
そういう考えは今でも続いている。
無理ならぬことだ。
車で回ったので予定より早く終わった。
それなら有家の山桜でも見て帰るかという人たちがいたり、口之津まで出て、バスで帰る組。
小浜経由島原帰りとまちまちだ。
ではまた来月、バイバイといって別れる。

 

 

次回は、二十四番霊場・木場観音~二十八番霊場・川原観音

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

 

島原半島観世音三十三霊場巡り3「十三番霊場~十八番霊場(南島原市有家町山川名~南有馬町浦田名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 島原半島観世音三十三霊場巡り 2「八番霊場~十二番霊場 (南島原市深江町~有家町原尾名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑥「口之津港ターミナルビル(外観)」

乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑤「旧口之津鉄道廃線を行く」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~④「島原駅中心」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
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「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
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