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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の二

今回もクイズを解きながら、それぞれの時代の「島原の歴史」を探ってみようと思います。
では、問題です。

問題はコチラ

Q 1 昔の島原半島全体の地名は何といった?
Q 2 400年も前に島原の若者がヨーロッパを旅しています。その人物とは?
Q 3 松平忠房は島原のお殿様として有名ですが、島原藩の何代目藩主?
Q 4 島原藩の要請で、現在の島原市小山町に薬草園を完成させた人物とは?

A1 肥前国高来郡―肥前国高来郡(ひぜんのくにたかきのこおり)島原半島全体―

今の長崎・佐賀両県を合わせて肥前国といい、その中に高来郡、彼杵郡、松浦郡など11郡があった。
対馬と壱岐は別の国になっていた。
高来郡の中には9郷があって、也万田、爾比井、加無乃呂、乃止利の郷名が分かっている。
それぞれ山田、伊古・伊福、神代、島原に当てられよう。
郡衙(郡の役所)は多比良(国見町)に置かれていたろう。
多比良には6~7世紀の大型古墳があり、高下古墳では豊富な副葬品から有力な勢力が想定される。
また五万(胡麻)長者伝説も残っている。
この五万長者遺跡からは唐草文様軒瓦や香西布目文平瓦などが出土していて、瓦葺建築物があったと推定され、8世紀前半の寺院跡の可能性もある。
これらは高下集落に集中し、この高下は「郡家」の転訛で、郡衙の跡と思われる。
『肥前国風土記』高来郡条には郷が9ヶ所、里が21ヶ所とある。
またこの時代には駅が18ヶ所置かれていて、肥前国府(佐賀県大和町)から出発して長崎県側に入り、新分、船越(諫早市)、山田(吾妻町)、野鳥(島原市)の駅と続いていた。
それぞれ駅馬5疋が常置していて、国の命令を伝え、租などの税を運ぶ道であった。

高下古墳

高下古墳

 

A2 千々石ミゲル ―天正遣欧少年使節 北有馬町・南有馬町―

「日本でキリスト教がこのように盛んである」と、お礼を申し上げるために4人の少年がローマ教皇のもとへ旅立った。
これが遣欧少年使節である。
1579(天正7)年、ヴァリニャーノ巡察師が来日して、キリスト教宣教師会議を開いて日本での布教方針を決めた。
ヴァリニャーノ神父は日本人の優秀さを理解していたので、日本人の素晴らしさをヨーロッパ人に知らせ、同時に日本人に直接西洋文明の発達、特にキリスト教の盛んな様子を理解させたいと思った。
そこでセミナリヨで学んでいる少年を選んで、ローマへ送る使節を計画した。
大友宗麟の遠縁にあたる日向の伊東マンショ、有馬鎮純(晴信)の従弟で大村純忠の甥にあたる千々石ミゲルの二人を正使に、大村の中浦ジュリアンと原マルティノを加えて4人を使者とした。
1582(天正10)年2月20日、長崎港を出帆、1585年ポルトガルに着く。
3月23日ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見して、有馬・大村・大友3キリシタン大名の書状を差上げた。
4人はその役目を立派に果たしたのである。
1年かけてヨーロッパ各都市を訪問して大歓迎を受け、1586年出発、1590(天正18)年7月28日長崎に到着した。
その後4人はイエズス会員となり活躍するが、千々石ミゲルは棄教する。
残りの3人はその後も聖職者として弾圧期のキリスト教を支えていった。

千々石ミゲル像

千々石ミゲル像

 

A3 7代目―島原松平氏 島原市城内一丁目―

松平氏は、いわゆる松平18家の一つで、深溝松平と称した。
先祖は徳川家康に従って各地で連戦して、厚い信頼を受けていた。
1669(寛文9)年、高力氏に代わって松平忠房が入封した。
その時、島原領3万8300石に新たに豊前宇佐郡48村1万3540石と豊後国東郡50村1万4050石を加増されて、6万5900石余となった。
この時、将軍家綱は「島原は難治の地であるから人を選んで移した。
その意をよく体して忠勤するように」と、命じられた。
また老中から「西国を見て異事があれば即、書状をもって報告せよ」と特命があり、「参府前や帰封の後、及び阿蘭陀船の出港時には必ず長崎へ行って監視し、自らその実情を書にして官郵で伝えよ」とも指示された。
松平氏は領内統治だけでなく、天領長崎の監視役になり、九州の隠し目付ともいわれ、外様大名が多い西国に打込まれたクサビの役目を果たしていた。
島原領は、有馬氏に続いて松倉氏2代、高力氏2代とめまぐるしく藩主が代わったが、松平氏の入封後約200年間(宇都宮戸田氏との交替勤務25年間があるが)安定した統治が続いた。
<松平氏系図>
忠定―好景―伊忠―家忠―忠利―忠房(島原初代)…忠雄…忠俔…忠刻
―忠祇―忠恕―忠馮―忠侯―忠誠―忠精…忠淳…忠愛…忠和

松平家の甲冑

松平家の甲冑

A4 賀来佐之(かく すけゆき) ―国指定史跡 薬草園跡 島原市小山町―

島原藩庁はシーボルトから医学を学んだ賀来佐之を招いて、済衆館の教授に任命した。
彼は医学だけでなく西洋科学も指導している。
その一つが薬草の研究であり、その薬草園跡が今も残っている。
藩では城内にあった薬草園をさらに充実させようと、眉山の麓の山林を開発して1haに拡大した。
それがこの薬草園で、1846(弘化2)年に完成した。
さらに佐之は弟の睦之(睦三郎)を呼び寄せて、島原半島の薬草調査に回らせた。
睦之は528種の薬草を採取し、彩色図鑑『島原採薬記』にまとめた。
その後も薬草を探し求めて諸国を歩いている。
なお記録によると、薬草園の収入は唐芋51%、菜種22%、大豆10%、薬草10%などととなっていて、必ずしも薬草栽培だけでなかったようである。
薬草園としての経営は16年で終わり、1869(明治2)年に廃止された。
しかし今でも取囲む石垣や詰所など役所跡、薬師如来を祭った祭壇などが残っていて、国指定の史跡となっている。

薬草園跡

薬草園跡

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
島原半島観世音三十三霊場巡り6「二十九番霊場~三十三番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り5「霊場巡り第二十四番霊場 ~第三十番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り4「十九番霊場~二十三番霊場」
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