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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の五

今回は江戸時代を中心に、島原半島にまつわる歴史のクイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q 1 原城の近くにある八幡神社境内に島原の乱の供養塔を建立した人物は?
Q 2 1792年の島原大変、大津波が発生し熊本・天草で犠牲者が多数出たことから何と呼ばれている?
Q 3 佐賀鍋島藩神代領の初代領主は?
Q 4 アメリカのペリー来航に続き、長崎に来航したロシア艦隊を率いていた人物とは?

A1 鈴木重成 ― 首塚(くびづか) ― 南有馬町大江地区

原城跡すぐ近く八幡神社境内に、首塚と呼ばれる島原の乱の供養塔がある。
乱後の復興へと派遣された代官・鈴木重成が建立し、亡くなった人の霊を供養したものである。
責任を問われた藩主・松倉重次(勝家)は斬罪になり、所領は没収された。
その後へ高力高房が1638(寛永15)年に入封した。
新藩主の第一の任務は、亡地となった2万2000石もの地域の復旧であった。
そこで農民の移住が急がれた。
1642(寛永19)年、幕府は西国諸藩に命じて農民を島原・天草へ移住させることにした。
こうして移り住んだ人を「公儀百姓」と呼び、旧家にはそれを物語る古文書や伝承が残されている。
また高力氏は「作取り」を布告して、持ち主のいない地を与え、年貢を免除するという特典を出した。
それで領内や大村、熊本などから農民が駆け込み、その人たちを「駆け込み百姓」といった。
こうして村むらに人が増え、復興への道を確実に歩み出すことが出来た。
1674(延宝2)年の領内影踏人員が4万5687人となっており、乱前の人口より多くなっている。

Q1_島原の乱供養塔(南有馬町八幡神社)

Q1_島原の乱供養塔(南有馬町八幡神社)

 

 

A2 島原大変肥後迷惑 ― 島原大変(しまばらたいへん) ― 島原半島全域

1792(寛政4)年4月1日夜、島原城下町の裏にそびえる眉山が崩壊して町を埋め尽くした。
死人1万184人、本家流失1万665軒、破損本家2932軒、破損田313町余、破損畑115町余、破損塩浜34町余、船530艘と伝える。
同時に発生した大津波が領内の村むらや対岸の熊本・天草を襲い、1万5000人が流死した。
これを島原大変肥後迷惑という。
前年から島原地方には地震が続き、年が明けると普賢岳が噴火を始める。
流れ出した溶岩は山を下り、谷を埋めて杉谷村千本木へせまった。
そして、この崩壊である。
この時眉山の6分の1にあたる4.4億?の土石が崩れ落ち、大手御門前から南の町全体が厚い土砂に覆われた。
この時発生した津波は高さ10mに達し、北は山田村(吾妻町)から南は南有馬村(南有馬町)まで22町村に被害をもたらした。
日本災害史上1、2に挙げられる大災害に見舞われたのである。

Q2_島原大変でできた湖・白土湖(島原市白土町)

Q2_島原大変でできた湖・白土湖(島原市白土町)

 

A3 鍋島信房 ― 神代鍋島陣屋(こうじろなべしまじんや) ― 国見町神代地区

中世から戦国期にかけてこの地を支配していた神代氏の居城・神代城跡を中心に、陣屋跡や武家屋敷などが今も残っている。
南北朝期に、天皇側土豪として神代式部貴益の名が見え、その居城であった。
戦国期には有馬氏に取り込まれるが、竜造寺隆信の島原半島侵攻時には、神代貴茂は竜造寺軍へ参加して、ここ神代城がその前進基地となる。
しかし隆信の敗退とともに滅亡する。
1587(天正15)年、豊臣秀吉はこの地を佐賀領主鍋島直茂に安堵し、ここに佐賀領神代の飛地が生まれた。
東神代、西神代、伊古、古部の4村を領地に石高4410石である。
1608(慶長13)年、藩主の兄・鍋島信房を初代領主に明治まで16代続く。
神代城は東西350m、南北400mあって、有明海に面した北側に大手口があり、それを挟んで東に出丸、西に三の丸を配置し、周りには海水を引き込んだ堀が巡らされている。
東側には陣屋と武家屋敷が置かれ、それらは今も当時そのままの姿で残されている。

Q3_国指定重要文化財 鍋島邸(雲仙市国見町神代)

Q3_国指定重要文化財 鍋島邸(雲仙市国見町神代)

A4 プチャーチン ― 砲台の築造 ― 島原市新田町など

アメリカ・ペリー艦隊に続き、ロシア・プチャーチン艦隊が来航した。
その結果、1854(安政1)年幕府は日米和親条約を結んで開国。時代
は大きく変わっていった。
島原藩はロシア艦隊の長崎入港の時には570人の藩兵を送って港を
監視した。その後砲台を築き、大砲を鋳造するなど海防に躍起となる。
1854年には領内29村から2万人余の夫役で城下海岸3ヶ所に砲台
を築いた。また加津佐村権田海岸などにも砲台を構えた。さらに1863
(文久3)年に農兵の制を設けて、小浜・加津佐・有馬に置いた。また兵制を改革して兵器の近代化を図
り、100丁の鉄砲を購入する。これらの費用はハゼ・木ロウの益金から賄った。

Q4_権田の高台から望む東シナ海(南島原市加津佐町)

Q4_権田の高台から望む東シナ海(南島原市加津佐町)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の四
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の三
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の二
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
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