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松尾先生のぶらっとさらく島原「第3回国見~瑞穂」

はじめに

国見町は大きな町である。歴史も古く、訪れたいところも多い魅力的な町だ。
何しろ藩政時代からの大村。多比良と土黒、それに鍋島領神代が合併して生まれた町で、面積38平方キロメートル人口1万2千人。
背景に控える雲仙・国見岳から名をいただき町名とする。

瑞穂町は人口6千2百人、面積27.4平方キロメートルとあまり大きくない町なのに、旧藩時代は5村に分かれていた。
島原領の西郷と伊古、伊福の3村、佐賀領の伊古と古部がそれ。小村が散在していたから、境界も入りまじっていた。
それが明治になってすぐ両伊古村が合併しその後西郷村に合併。隣村の伊福と古部は明治後も存続していた。
それが組合村制となり、合併したのが大正15年。それで年号を村名とした。
さらに昭和31年、西郷村・大正村が合併してコメ作りの盛んな地にふさわしく「瑞穂」町と命名する。

 

1.鬼の岩屋(高下古墳)

栗谷川を渡ると国見町。ちょっと寄り道して、鬼の岩屋を見に行く。農家裏畑に大きな石を組み合わせた古墳がある。高下古墳という。
3m四方の奥室があって、その前に2.5mの羨道がある。その壁や天井には10tもの巨石が使われている。
この豪族の勢力がしのばれる。本人、父、祖父と三代にわたって埋葬したのか、石室は3分割されている。

装飾品類、武具、馬具、玉類、須恵器などが数多く出土して6世紀後期から7世紀初めに築かれたのであろう。
その規模や出土品から見て、この一帯に勢力を延ばしていた郡家の五万長者一族のものか。
この山手には五万長者屋敷跡といわれる奈良時代の寺院跡や、百花台には旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡がみられる。

これらの遺跡と遺物は国見高校の先生と生徒たちがずっと研究を続けてきたもの。その成果を学校に考古学資料館をつくり守っている。

高下古墳

高下古墳

2.多比良村轟木名

また寄り道して浜手の方へ行くと、轟木名がある。ここは庄屋元もあり、多比良の中心地であったところだ。
安政5(1858)年に書かれた「轟木名竃六段人物職業調」を見ると、江戸の昔の農村の様子が浮かび上がる。

住民100戸の生活状況は、上々1、上2、中上4、中10、下下44、極貧29、家無6戸と三分の一が生活貧窮家庭である。
それは耕作面積を見ても同じで、耕作無10。
3反以下15。
3~5反14。
5~7反27。
7反~1町14。
1町以上17戸であって、1町7反の土地持ちがいる半面、土地なしが1割もあるのだ。どう暮らしていたろうか。
職業を調べると庄屋、乙名各Ⅰ、蝋締2、素麺作り1、竹細工2、日雇稼1、耕作83、無業9戸である。
耕作で兼業が酒造1、大鋸1、大工5、左官1、医師2、馬医1、下駄作1、倉包1、蝋締手4、紺屋1、馬仕入1、豆腐屋3戸となっている。
農村にも貨幣経済が広まり、商工業の広まりがみられる。また貧富の差が広がり、豊かな家では名字を持っている。

 

3.多比良ガネとバッシャ船

轟木集落の下が船津。多比良は昔から漁業の盛んな地で、多比良ガネ(蟹)はあまりにも有名。
多比良ガネというとハサンボ(ハサミ)で、島原大変にまつわる話が伝えられている。
この時救援に一役買ったのが素封家松本清左衛門である。漁船を八代に注文して、漁民に贈る。
おかげで漁民たちは災害を乗り越えることができた。そこでお礼にと蟹を持参するようになった。
いつも多くの蟹をもらう清左衛門は食べきらない。うれしい悲鳴である。
それでカニのハサミを1本だけもらうようになったそうだ。
・・・という話で、多比良ガネはハサンボが1本ない。
今では2本そろっているカニも目立つが、それは他で獲れたものだろう。

かつて港にはバッシャ船という舳先が長く突き出し、そこをシュロ縄で巻いた船が停泊していた。
干満の差を利用したバッシャ網漁船で、戦前は朝鮮沖まで出漁していた。一漁千円以上を稼ぎ出し、大漁旗ならぬ千円旗を掲げて帰国していたそうだ。
長さ21m、幅6mの船は、潮流に乗ってくる回遊魚を飲み込むアンコウのようだから、アンコウ網ともいった。
それもこれも遠い昔の話となってしまった。

多比良ガネ

多比良ガネ

4.篠原四つ角、金山城跡

土黒に入った。
篠原の十字路に道標が立っている。ここを南へ温泉、北へゆくと須崎港で、藩主の参勤時に長洲へ渡る地。
帰路はここから庄屋宅で一休みして島原への道を急ぐ。

南へ2kmほど行くと金山城跡。
土黒川に囲まれ、20mの高台は森となり、城跡が壊されずに残っている。ここにキリシタン武将結城弥平治ジョルジュが城を構えていた。
小西行長に仕える熱心な信者で、主君が関ケ原合戦で敗れた後、有馬晴信に招かれてこの地に来て3千石の城主となる。
教会も建て、信者として静かな暮らしである。彼を慕う武士や農民が心の安らぎを求めて集まり、キリシタンの花がこの地に咲く。
しかし晴信が失脚、直純の世となると長崎へ去る。わずか10年の暮らしであった。
その後歴史の舞台から消えてしまう。

国見中学校前を通り倉地川を渡るとここが島原領と神代領との境界。
周りは広い水田地帯で、北側の筏遺跡は米作が古くからおこなわれていた跡だ。
通りに2基の地蔵尊が祭られている。60㎝の地蔵様は清楚なお姿で立っていらっしゃる。
碑文を見ると、宝暦7(1757)年武蔵国豊島郡行者自笑奉納、国土安寧衆願成就と読める。

 

5.神代領

神代も古い歴史を持つ。
「肥前風土記」に加無乃呂とあって、高来四郡の一つであった。神田(カムシロ)に由来する地名か、中世には髪白庄40丁と荘園の存在が知られている。
南北朝の騒乱時には南朝方土豪として神代式部貴益の名がみられる。
それが戦国時代、有馬の領内に繰り込まれ、龍造寺隆信の侵入で龍造寺側につき、滅ぼされる。
豊臣秀吉の九州安堵時に佐賀藩神代領が成立し、鍋島直茂藩主は兄の信房を鹿島から移させ神代鍋島氏とする。

小城下町・小路をさらく。江戸時代へとタイムスリップしたようだ。
鍋島邸がある。あの一国一城制により、城を取り崩して陣屋を立てて統治の中心とした。
高さ2m、長さ30mの亀甲積石垣と長屋門を築き、邸内を守る。
そこには島原半島一の名園がひかえる。通り一帯は国の伝統的な建物群に指定されている。
今でも永松邸などが残る。

城跡へと登る。
東西350m、南北400m.の城郭は周りを海が取り囲む。海城の面影が残る。
丘向こうに鍋島家の菩提寺常春寺がある。4代領主が母堂・桃源院殿花広常春大姉を弔うために建立。
2代から17代春雄氏までの墓碑がそろう。高さ2mもある宝筐印塔が38基立ち並び、それは壮観である。

鍋島邸主屋

鍋島邸主屋

6.杉峯城跡と岩戸神社

神代長浜を通って西郷へ。かつてここには長い長い松並木があったが、国道の改修で砂浜が、松くい虫によって松の大木が枯れてしまった。
舟津・伊古と進み、広い西郷地区の水田を歩く。
左手に、雲仙岳から延びた台地の末端にこんもりした森が見える。杉峰城跡だ。

高さ36mの地に本丸を置き、その北に二の丸や出丸を構えている。その間には幅8~10m、深さ4~5mの堀がある。
南側には城主と家臣の館が道沿いに延びていて、山手から用水が引かれ、それは堀へと流れる。
城の北と東には西郷川、西には布木川が流れ、それぞれ20~30mの崖で隔てられている。
かなりの規模の山城であることが分かる。城主は西郷氏で、南北朝期に築かれている。
対岸の菊池氏とのつながりがあり、神代氏や多比良氏など北朝側土豪と争っていた。
勢力を伸ばして諫早一帯にも国を広げ、近世大名として成長していくかに見えたが、豊臣秀吉から取り潰される。

城跡からは広大な水田が見える。この水源が岩戸山。
見上げるような高い岩壁にはいくつかの洞穴があり、その中の一つに岩戸社が祀られていて、西郷の氏神となっている。
近くには石清水が湧き出、まわりには杉の大木が40~50本。
なかには樹周5.2m、樹高37mの御神木もあって、なんだか神聖な気になり、思わず手を合わせる。

 

7.二人の博士(原口要、下村脩 両氏)

西郷八幡社へ寄る。
一角に古い形の鳥居がある。がっちりした柱、笠木が3つに分かれて作られ、そのソリの形からして江戸以前の物か。
島原半島では珍しい肥前型鳥居である。
そばに立つ進藤行道神職の頌徳碑の中に原口要の業績が刻まれているそうだが磨滅してかよく分からない。
氏は進藤家の三男として生まれ、藩士原口家へ養子となる。
貢進生に選ばれて江戸へと登り、大学南校に入学し、明治8(1875)年文部省の第一回留学生に選ばれてアメリカへ渡る。
卒業後も残り、鉄道会社の技師として活躍。帰国後は東京府の技術長となり鉄橋や上下水道の工事を指導。
鉄道庁へ移り、鉄道敷設と、その設計監督にあたった。そして日本最初の工学博士となる、島原鉄道の敷設にもいろいろと援助している。

近くに旧神代伊古村庄屋家があるが、そこの出の下村脩博士はノーベル賞を受賞された人であることは存じのはず。
瑞穂支所前にはこじんまりとした博士の記念碑が立つ。今でも毎年墓参りに帰郷されるとか。
さらいてみなければ分からない地域の歴史だ。

下村 修 博士

下村 修 博士

8.屯宮祭

有明海を右手に眺めながら歩く。少し山手へ行き、古部八幡社を訪ねる。

このお宮では毎年十月中旬に屯宮祭が五穀豊穣を祝って賑やかに行われる。
村人が選ばれて神様になるという。他所にはないお祭りだ。
神官が祈祷後、御祓いをして御幣で人名が書かれた紙を選ぶ。3集落から2名ずつ、6人が晴れて神様に選ばれて、その人たちを6人衆と呼ぶ。
祭の当日は朝から親戚と知人を呼んでお祝いをし、正午には純白の着物と袴に身を包み、神社に集まる。
それから3日間は神様として、神様の使いとして氏子に飲み食いを賄ってもらう。毎朝、前を流れる松江川で禊をして、地域内を回って陽気に御神酒を振る舞い、夜は神社で御籠する。
最終日には氏子の宮相撲が行われ、それが終わると餅まきして6人衆は家へ帰る。
親戚の人はマチムカイといって酒肴でお祝いをして人間へ立ち返るのだ。

この祭りは新嘗祭の一種であろう。それにしても古い形の祭りが残っているもんだ。
境内には元禄期の鳥居も残っているから、確実に300年以上の古い伝統を引き継いでいるのである。
旧古部村熊野神社前では、島原街道と国道251号線、島原鉄道線3本が並列している。
島原地方の交通史が一見できるところである。その街道も旧伊福村から国道と切り離されてしまい、今では通る人も車もなく、街道をのんびりと歩く。
やがて吾妻町三室についた。
(次回は、吾妻から愛野まで)

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

松尾先生

過去の記事はこちら。

松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

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