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乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」

〈初めに〉

機関車・植木元太郎
霊丘公園の植木元太郎寿像台石に、「植木翁は、機関車となって、島原半島の文化、産業、政治、観光、などを牽引した、、、、」と宮崎康平さんの讃が刻まれている。
島原の長い歴史を語る上で、翁の活動を抜きに話せない。島原地方の“巨星”であり、今も輝いている。

1.土黒光専寺

車窓右手にモダンな寺院が見える。
土黒の人たちの菩提寺・光専寺だ。
戦後改修するときに、東京築地の西本願寺をモデルにしたという。
この地の宮崎甚左衛門翁の発願で、寄付などをもとに建築されたという。
ここは雪香和尚のお寺。
和尚は京都で修業中に丸山応挙について絵を学び、その作品を各地で目にすることができる。
また絵画・和歌・俳句などに優れ、板倉勝虎家老たちと接し、島原を代表する文化人であった。
島田家の墓所には、尼港殉難者供養塔が建てられている。
そこには島原地方の人たちの悲惨な歴史が刻まれている。
島田元太郎は明治初年、ロシアへ渡りニコラエフスク(尼港)で手広く活動していた。
雑貨販売、鉱工業・造船、金鉱山開発、銀行・金融業など今日の総合商社のような商活動を行い、年商2700ルーブルを上げていた。
商会の発行する島田札はルーブル貨よりも価値が高かったという。
ロシアの産業の発展や日本・ロシア貿易に大きな役割を果たしていた。
しかしロシア革命が起こり、パルチザンは1920(大正9)年、当地の日本人を虐殺、という出来事が発生。
この時島原半島出身者が65人も死亡したので、地元では大問題となる。
地元新聞でも連日報道され、ニュース映画の上映時には臨時列車が出されるほどだ。
供養塔のまわりには犠牲者の人名がずらり、その死を悼む文も刻まれている。
また別の個人墓には前途ある我が子を失った父親の哀悼の言葉が述べられ、今日でも胸を打つ。

2. 須ノ崎湊跡

土黒川河口に着く。
北岸に入江があって、御船場とその解説板が立つ。
藩主の参勤時にここから江戸へと旅立ち、またお国入りした所だ。
有明海渡海の最短距離であるので、今もフェリー発着港になっている。
江戸幕府はその政治の根幹をなす制度として、諸大名の妻子の江戸在府と参勤交代制度を始める。
これらが幕藩体制280年余の長期安定政権を維持する。
その始まりは、1635年の武家諸法度の発布である。
参勤が実行されると、交通路が整備されて街道が賑わう。
人と物のネットワークができ、江戸は世界最大の都市として発達した。
島原藩主は江戸まで301里半を約30日かけた。
その回数は在封175年で東勤77回、西帰79回で、67回の領内巡視より多い。
その苦労は大きかったろう。
参勤のコースは時々変わるが、それは藩も軍団の移動訓練と考えていたからか。
有明海を渡海したら小倉まで陸行。
もちろん長崎街道利用の小倉までのコースもある。
その後は山陽道か瀬戸内海コース。
さらに東海道か中山道コースを利用。
出立と帰着がこの地で、今でもその面影が残る。
この時は地元多比良や島原の漁民が引き船を出していた。
御召船は栄寿丸。
島原城に1853年建造した時の設計図があるが、全長15間(約30m)、幕末に建造した時は2500両かけている。
近くの土黒村庄屋宅で一休みして御行列が進む。
「シタイ、シタイ」と先頭が警鐸して先払い、その後に槍持、鉄砲組、弓持など御徒士が続く。
御殿様は御駕籠か御馬で、御側付に囲まれて進む。
次に番士や御荷物、鋏箱持の人足が続く。
御通過時は、村ごとに御目見格以上の村役人が出迎え、「○○村の者、御目見の者」と紹介され、それに従って御礼をなす。

3.多比良駅

駅の思い出というと、ガネ(蟹)の販売だ。
父の出張の土産にガネを食べていた。
多比良ガネといわれるように、ここの沖合の特産物で、駅の名物となっていた。
そのホームが今では「サッカーの町・くにみ」と国見高校の全国優勝を称える記念碑がお客を迎える。
2002(平成13)年の高校サッカーでは見事3冠王となり、高校サッカー選手権では2連覇を達成するなど、一躍全国にその名を轟かせた。
このところその名が聞かれなくなったが、今年の県大会では準優勝と、古豪復活か。
若いOB監督の指導が功を奏してきたのか。
国見高校というと、全国でも珍しい考古学資料館があって、長年、教師と生徒が発掘調査・研究してきた貴重な資料が数多く収集・展示されている。
校庭には近くの髙下古墳や縄文式竪穴住居が復元されている。
これまた特色ある国見高校だ。

4. 鉄狂斎・植木元太郎

いうまでもないが、島原鉄道の創設者植木元太郎翁はここ多比良の出で、1857(安政4)年生れ。
15歳で佐賀鹿島谷口藍田塾に学び、早く父を亡くすが、郷土の産業発展に努める。
1897年から代議士となり活動の場を大きく切り開く。
1899(明治32)年、中山文樹らと有明鉄道を発起し、「軽便鉄道にすれば1マイル約5万円に出来よう」と、その実現に尽力する。
1903年には島原3町村有志の馬車鉄道協議会を組織し、「県道を改築し幅1間半の軌道を敷設する」と訴える。
1905年、東京実業家雨宮啓次郎と面談して、資本金30万円を工面する。
南高来郡長も賛同するが、県道利用の軽便鉄道は県の反対で立ち消えて、1906年に普通鉄道へ計画を変更し、62万5千円で島原湊・諫早間に鉄道敷設を立案し、南北高来郡創立委員会を立ち上げる。
翌年島原出身の九鉄技師渋川主一郎に測量・設計を依頼する。
1908(明治41)年5月5日島原鉄道創立総会を開き、社長に選ばれる。
資本金80万円などと決定。
9月に本免許を申請、翌年下付される。
株式募集始まる。
鉄道庁工務議長原口要博士は会社顧問に迎えられ、物心両面から島鉄を支える。
さらに1919年口之津鉄道を創設して社長となり、1920年温泉鉄道創設。
一時島原半島3鉄道の社長となり、自ら「鉄狂斎」と号した。
さらに1940年には初代島原市長となり、政治の面でも大きな働きをなす。

5. 大野原遺跡・縄文の里展示館

有明町一帯は地味が肥え、何を作ってもよく育つ。
ダイコン、ニンジン、ゴボウ、スイカ、イチゴ、メロンなどの特産地。
また海にはこれまたタイラギ(貝柱)、イリコ、ワタリカニと、海も宝庫だったが、このところ漁獲も少なくなったとか。
近くの大野浜は秋にはホロン子市が開かれ、買われた子馬が島鉄貨車で運ばれていった。
これまた昔話となる。
大野原台地は縄文・弥生・奈良時代から続く大農業地帯で、多くの石器や土器、など遺物が発掘される。
特に窯跡とみられる焼土群や土器の原料とみられる粘土貯蔵所が発見され、縄文時代後期の土器製作場跡といわれ、話題となる。
これらの出土品などは発掘現場跡地のレプリカと共に有明文化会館の地下に組み込んで、大野原遺跡・縄文の里資料館として紹介されている。
是非ご覧いただきたい資料館です。

6. 大三東駅

難解駅名の一つとしてよく話題になる。
「オオミサキ」と呼ぶ。
その名の始まりは1889(明治22)年、藩政時代の大野・三之沢・東古閑3村が合併した時、各村名を一字取って大三東村と決めた。
名付け親は生松庵の城台日々来和尚という。
さすが村一番の知恵者だ。
ここ生松庵は、島原半島33観音霊場の31番札所。
島原江東寺を出発した観音霊場巡拝は島原半島を時計回りして、ここへ達する。
歴史のある寺である。
温泉山満明寺の麓寺として建てられた興善寺に始まる。
それが有馬氏の仏教弾圧や島原の乱で荒廃し、その跡に1659年に高力氏が復興した寺。
御本像の大日如来木像、金銅製釈迦像などがあり、また涅槃絵もあって歴史の古さを表わす。
大三東では昭和の初期に、仲町貞子という文学者が出る。
1894(明治27)年大三東村に生まれる。
本名は柴田おきつ。
父は土地の内科医、母は熱心なプロテスタントで、おきつは洗礼を受け、母と共に島原の教会へ通っていた。
長崎県立女学校へ進み、卒業後は京都で暮らし、浜田弥三郎と結婚。
1930(昭和5)年、「文学界」などで小説を発表し、谷川俊三らから高い評価を受ける。
「私は雲仙岳の麓の小学校に学びました。
雲仙岳の巨大な姿が眼の前にありました。
・・・晴れた日は海を隔てて肥後の山々がクッキリと見え、その岸を大牟田に通う小さい汽船が煙を吐いてゆくのです」(「五月の思い出」より)学校隣の小公園にその文学碑が立っている。
のびのびした視野と豊かな感性はこの地で育まれたのだな。

7. 松尾町駅

島原鉄道創業期にはこの駅はなかった。
ここ松尾地区は大三東の銀座とまで言われていた。
商店も多く、銀行や郵便局、金融機関もあり、旅館や医院、映画館、酒造場や食品工場もあった。
小原川下は機帆船や汽船で賑わっていた。
対岸の熊本や柳川、 八代など有明海上交通の要地となっていて、交易の中心地であった。
土地の人はこの地に是非、駅を設置してもらいたいと運動して、1934(昭和6)年開業した。
「松尾町駅」というが、町の名前でなく駅名である。

8. 木蝋製造と木綿織

櫨の木は年平均気温15~17度の地によく成長し、九州一帯が産地となる。
櫨倉7郷といって、島原はその一つであった。
江戸中期からその栽培が進められ、忠刻藩主は5万株、さらに5万株と増やしていった。
また櫨蝋を扱う役所を開き、その頃櫨実が55万斤(330トン)を買い入れている。
特に1790年頃、新種が発見され、その含有割合が30~40%と高く、生産力が向上する。
島原大変後、櫨蝋の収入を増やし、大坂蔵屋敷では年平均400万斤(400トン)、蝋を56万斤と目論見む。
増収策により年間5千両~7千両納金と取り決めている。
大変後の領内の復興の力となり藩財政を改善する。
幕末に御召船を建造したり兵器の近代化に使用していく。
今も本多木蝋工業所では伝統工芸を保持し、頑張っていらっしゃる。
木綿織も同様だ。
藩政時代から領内では農家の副業として木綿織が盛んにおこなわれていた。
明治になっても大三東や湯江、三会などでは盛んで、農家のいい収入になっていた。
織り上げた反物を島原の呉服店や商店に持参して、織り賃と次回の材料(木綿糸など)をいただいていた。
腕の良い娘さんは、「帰りは汽車で帰らんネ」と汽車賃を貰って、それが有難かったそうだ。

8. 三会駅

三会駅は地区の南端にある。
計画では温泉神社近くに設置する予定であったが、この辺りは三会台地が海岸線近くまで迫っているので用地不足と、変更されたよう。
武家社会では馬は大切にされて、戦闘には欠かせない存在であった。
そこで馬頭観音信仰が盛んになった。
江戸時代には馬のみならず家畜の神、旅の道中安全を守る菩薩として広く信仰されていった。
その功徳は畜生道救済、魔性による病気平癒と苦悩除去だ。
島原は藩政時代から馬の大産地で、藩庁は厩方役所を設けて馬産に力を入れていた。
各村には馬籍があって、毎年2月には駒改めをして領内2,3千頭の馬を管理していた。
駿馬は留馬として御用馬の候補となったり、他所への移動を禁じていた。
また野放しといって、温泉山の麓へ放牧していた。
さらに駒市を開いて盛んに取引されていた。
その馬産の中心地が三会である。
馬頭観音が祭られたのは当然であろう。
御堂内には優秀馬の写真が奉納され、境内には子馬の像があちこちに置かれている。

 

(次回は島原駅~島原外港駅)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

過去の記事はこちら。

乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
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