記事

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の九

今回は戦国時代・江戸時代・明治から昭和の島原半島の歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q1 千々石ミゲルが天正遣欧少年使節としてローマへ旅立ったのは西暦何年?
Q2 厳しい鎖国時代に海で遭難し、メキシコまで送られた後に無事帰国できた島原人の名は?
Q3 遼陽会戦(日露戦争)で戦死し、後に軍神と称えられた千々石町出身の人物とは?
Q4 長崎市内の公園にある、北村西望制作の有名な像とは?

A1 西暦1582年 ― 千々石ミゲル ― 雲仙市千々石町 ―

千々石ミゲルは遣欧少年使節の正使を務めた人だが、詳しいことは分かっていない。
ミゲルは洗礼名で、千々石直員(なおかず)と称していた。
1569(永禄12)年に生まれたらしい。
有馬家11代領主晴純の子、直員は千々石家に養子に出て、ミゲルはその子として生まれた。
その頃、島原半島には佐賀の龍造寺軍の勢力が伸びて有馬氏は劣勢となっていた。
父直員は佐賀・藤津郡での合戦で戦死、その後を有馬純貴が養子となって継ぐ。
これまた攻められて千々石城で討ち死にする。
ミゲルは幼少の頃から戦乱に巻き込まれて、有馬本家に身を任せる生活を余儀なくされた。
このミゲルが遣欧少年使節の正使として有馬義直の親書をローマ教皇へ伝える大役を立派に果たした。
帰国後は聖職者の道を進むが、いつの時からか教会を離れて大村喜前を頼り、千々石清左衛門と名を代えて大村藩に召抱えられたが、棄教したらしい。
その名は歴史から消えてしまう。

千々石ミゲル像 (雲仙市役所千々石支所)

千々石ミゲル像(雲仙市役所千々石支所)

 

 

A2 太吉― 墨是可新話(めしこしんわ) ― 島原市城内一丁目 ―

厳しい鎖国時代にメキシコまで流されて帰国できた島原人がいる。
その人の名は島原の船乗り、太吉。
太吉は1841(天保12)年、房総沖で遭難して太平洋を漂い、スペイン船に助けられメキシコまで送られた。
中国を経て1845(弘化2)年、無事帰国できた。
この大旅行は『墨是可新話』という本にまとめられて、今でも島原図書館へ伝えられている。
彼は1799(寛政11)年頃生まれた。
島原城下片町に住んでいて、船乗りとして西宮中村屋の船・永寿丸に乗り込んでいた。
遭難して4ヶ月も太平洋上を漂うが救助されてメキシコへ運ばれ、この地で2年近く暮らす。
便船を得て中国へ渡るが、この地でも1年余を過ごさねばならなかった。
太吉の帰国は城下町で大評判になり、「メキシコ帰りの太吉どん」ともてはやされた。
藩校教授の賀来佐之は面談して、彼が体験した異国の様子を聞き取ってまとめたのが、上述の書物である。
今も伝わる同書には、遭難の有様や異国の珍しい様子、習慣が美しい挿し絵つきで述べられている。
またスペイン語の単語や会話文などが全7巻にまとめられていて、当時の人がいかに外国へ強い関心を持っていたかが良く分かる。

スペイン船に救助される(左) ・ 太吉とマレナ(右) 墨是可新話より(肥前島原松平文庫所蔵)

スペイン船に救助される(左) ・ 太吉とマレナ(右) 墨是可新話より(肥前島原松平文庫所蔵)

 

A3 橘 周太 ― 日露戦争と橘中佐 ― 雲仙市千々石町 ―

明治政府は、富国強兵政策を進めて外国まで勢力を伸ばしていった。
そこで朝鮮や満州に目をつけ、同様に満州を狙っていたロシアとの間に戦争となった。
それが日露戦争で1904(明治37)年に始まった。
両国は満州に大軍を送り込んで激しい戦闘が1年7ヶ月続いた。
8月から三度にわたって行われた旅順攻撃では3万7000もの死傷者が出た。
9・10月の遼陽戦では2万4000人、10月の沙河会戦では2万、翌年3月の奉天会戦では3万と犠牲が大きかった。
これは肉弾戦といって大砲や銃によらず人間が突撃していく戦法を取ったので、戦死者が多く出て痛ましい戦いとなった。
この遼陽会戦では千々石出身の橘周太少佐(後で中佐)が戦死した。
壮烈なその死は大々的に報じられて、後に軍神と称えられた。
島原半島から多くの若者が戦場へ赴いたが291名が帰らぬ人となった。
この戦争は、その後の日本に良きにつれ、悪しきにつれて大きな影響を与えた。
【千々石町「千々石町郷土史」】【島原新聞「明治37年記事」】

橘中佐像 (橘神社)

橘中佐像 (橘神社)

A4 長崎平和記念像 ― 文化勲章の北村西望 ― 島原市・南島原市 ―

郷土・南有馬町が生んだ彫塑界の巨人・北村西望は1958(昭和33)年、文化勲章を授与された。
その前に長崎平和祈念像を完成させるなど、力強い独自の作品を数多く生んだその業績が評価されたのである。
1972(昭和47)年には島原市名誉市民に選ばれ、同時に島原城の一角に西望記念館が開館した。
そこには西望芸術の代表作約60点が展示され、長い創作活動の軌跡をたどることが出来る。
1987(昭和62)年、102歳で天寿を全うされた。
なお氏は1979(昭和54)年、南有馬町名誉町民に選ばれ、誕生の地に町立の西望記念館が開館した。
今改めてその作品を眺めると、力強さの中にもなお若々しく活動し、新たな境地を開こうとする姿勢と戦争という激動の時代を生き抜いて平和への願いを爆発させた作品など、そのエネルギーには圧倒される。
【南有馬町「南有馬町郷土史」】【島原市「島原城資料館パンフ」】

平和記念像の最初の雛形 (島原城西望記念館)

平和記念像の最初の雛形 (島原城西望記念館)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の八
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の七
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の六
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の五
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の四
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の三
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の二
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
島原半島観世音三十三霊場巡り6「二十九番霊場~三十三番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り5「霊場巡り第二十四番霊場 ~第三十番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り4「十九番霊場~二十三番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り3「十三番霊場~十八番霊場(南島原市有家町山川名~南有馬町浦田名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 2「八番霊場~十二番霊場 (南島原市深江町~有家町原尾名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑥「口之津港ターミナルビル(外観)」

乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑤「旧口之津鉄道廃線を行く」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~④「島原駅中心」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第2回おとうの見た合戦
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第1回くれ石原をかけめぐる
松尾先生の島原街道アゲイン 最終回 「深江~安中」
松尾先生の島原街道アゲイン「有家~布津」
松尾先生の島原街道アゲイン「北有馬~西有家」
松尾先生の島原街道アゲイン「口之津~南有馬」
松尾先生の島原街道アゲイン「南串山~加津佐」
松尾先生の島原街道アゲイン「千々石~小浜」
松尾先生の島原街道アゲイン「吾妻~愛野」
松尾先生の島原街道アゲイン「国見~瑞穂」
松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

関連記事

イチオシ加盟店

  1. 有限会社サトーコーポレーション(環境エコ事業部)
  2. 山之内

加盟店一覧

最新号

松尾先生

OPINION

こちらもどうぞ!

いいね!もおねがいします

ページ上部へ戻る