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松尾先生のぶらっとさらく島原 最終回 深江~安中

〈はじめに〉

両地区とも今次災害で大きな被害を受けた。その後の復旧で同じ行政体となり、共に復興策を進めていくものと思っていたが、そうはいかず、、、。
両地区ともに災害の歴史を繰り返してきた地で、さらいてみると災害の爪痕は依然として残っている。日常、問題なく生活が続いているようだが積み残し分がまだまだあるようだ。

1.深江原

お山温泉山の東部に典型的な扇状地形が広がり、深江原というが、ここが深江の人々の生活の場である。
藩政時代から大きな村で、石高2120石、人口5447人であった。農業生産の盛んな地であるが干害を免れなかった。
しかし近年、圃場整備が進んで、施設園芸が盛ん。かつては葉タバコの生産が県下最大であったが時代の変化で不振になる。

同様に変わってしまったのが、馬の飼育。
どの農家でも馬小屋があり、耕作用の馬と子馬がいて、えさとなる草刈は子どもの仕事であった。
馬とのかかわりが強い生活であった。深江は馬の飼育が多かった地で、1893年調査で820頭。
1915年には馬の取引41万5,000円と村の特産品にあげられていた。

そこで1938年に県立の種場育成場ができた。深江原のど真ん中に事業所を置き、今のゴルフ場には放牧場があった。
時は戦争の時代で優秀な軍馬の生産が急がれた。ここで育った馬が多く出征。
ほとんどの馬が故郷に帰還できなかったのだ。馬も受難の歴史をむかえたのである。
事業所の跡には記念碑や供養塔が建っているが、すっかり忘れ去られている。

2. 深江城跡

深江断層を下りきったら、深江川に面する高台に深江城跡がある。
今では県道が東西に横切り、原型が破壊されてよく分からないが、台地南部に本丸があり、その両脇に東と西の出丸が造られ、北部に二の丸があったようだ。
本丸は川面から5mほどの高さで崖下には大きな根石が残っている。
堀端に当たる水田を今でも城の谷と呼んでいる。
南を深江川、東西を薬師川、畔津川で囲まれた周囲1kmの深江城は天然の要害であったろう。
城主は安富氏で、鎌倉時代中期に幕府引付奉行として安富泰嗣が肥前国高来郡東郷庄深江村の地頭となる。
その後、戦国時代にこの深江城を築き、有馬氏と勢力を争っていたが、やがて有馬氏の一門となり、共に肥前各地へ勢力を延ばしていった。

しかし佐賀の龍造寺軍が侵入すると有馬氏に背き、佐賀側に加わる。1587年、沖田畷の合戦で大将隆信が戦死、佐賀勢は総崩れとなる。
安富氏は城を脱出し神代を通り佐賀藤津郡へ逃げる。鍋島氏の家臣となり、旧領地名をとって深江氏と称することにした。

深江城跡

深江城跡

3.小林小学校

県道を山手へ進むと末宝地区に着く。街道から離れるが、訪ねなければならぬ地がある。
それが小林小学校だ。公立学校で人名を校名にする学校は珍しい。創立者の小林治市氏の姓をいただいたもの。

治市氏は地区の素封家に生まれた。
明治となり学制が発布されると教育の重要性に気づき、地区にも学校を早く開こうと決意する。
敷地3畝28歩に校舎を新築し、机といすも購入、そしてすべてを寄付して1876年9月18日開校の日を迎えた。
氏が24歳のとき。

その熱意と子どもたちの教育へ私財を投入する功徳に感謝して村議会は校名を“小林小学校”と決議した。
創立80周年に建てられた記念碑には、氏の業績と校名の由来が刻まれいつまでも伝えられていくであろう。

4. 諏訪神社

深江の中心部を進む。そしたらデンと、大きな鳥居が立つ。
ここ参道に1802年奉納の大鳥居、二抱えもある柱には「肥前国高来郡島原・深江村民氏子中」と力強く刻まれている。
それにしてもこの大きさに驚き入り、村人の意気込みに感心させられる。

ここは諏訪神社で、深江の地頭として入国した安富氏が建立した。諏訪社は武人として名高いので、信濃国上田からその地第一の大社を勧請したもの。
境内には建立時に植えられたクスが大きく成長し、幹の周り6mもの大木となる。もちろん県の天然記念物である。

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諏訪神社

国道251線に出てしばらく歩く、道端のツツジの植え込みの中に小さな石柱が立っている。「右みちせ乃、左志まはら道」と刻まれた道しるべである。
ここは瀬野追分で、1886年に県道が開通するまで、ここで道が分かれて、左山手の方へ島原往還が延びていた。
いまではすっかり忘れられている。ここで国道と別れて圃場整備された畑地を北上、水無川茶屋松橋へ着く。
ここが境界、眼前に普賢岳と眉山が迫る。

5.旧中木場村

1889年、海辺の村安徳と合併して安中村となる。
さらに1940年に島原町と統合して現在に至る。
中木場の村の人口は島原の乱時には719人であったが、200年後には2.7倍と増加している。
安徳に比べたらその増加率がずっと高い。
それは本村側から山手へと耕地を切り開いて生産性を高めていった結果であろう。
もともと木場という地名は、切替畑・焼畑耕作が行われていたところで、隣の大野木場など各地に存在する。
地名は歴史を物語る。

ここ中木場村の歴史は災害との闘いであった。
寛政の大地変では普賢岳の直下であり、2軒が消滅、1町7反5畝が流失する。上木場地区の墓地にはその墓も残っている。
家屋の損失や田畑の流失はそれほどでなかったが、水源が涸れてしまい、田は畑となり、飲み水にも困るようになる。
水飢饉が10数年続く。村では下田吉兵衛庄屋を中心に水源を探す。
の中で岩下山の麓に清泉があると神のお告げがあり、駆けつけると水が湧き出ていた。
村民は総がかり、お金と労力を出し合って村まで約5kmの水路を敷く。
1821年、300戸の飲用水と田畑7町がその恩恵を受ける。

しかし丸太をくり抜き、つなぎ合わせた水道では腐食が激しく、修理が絶えなかったので、37年後には石造りの水路とする。
切り石幅45㎝×深さ20㎝と溝を刻み、シックイで固めて本格的な水道とする。
その費用、銀65貫余也。市の水道が敷設されるまで150年間も使われていたが、水源は厚い土石に埋まり清水川も断ち切られてしまった。
もうかっての清水川を眼にすることはできない。貴重な村の文化財をどうにかできないものか。

6.旧安徳村

平成の災害でメタメタになった水無川も20年後の今日、よくぞ復旧したもんだ。
水無川とはよくいったもので、降った雨水を一気に海へと押し流す。流路8kmの暴れ川である。
何度もの氾濫で深江~安中へ扇状地を造り出している。記録にあるだけでも1664年春の普賢山頂の大池が決壊して水無川ができたこと。
1820年の大雨で洪水が発生して安徳・深江両村が被害などなど、氾濫で天井川となって被害を及ぼしながら平成の大変と繋がっていく。
それで南安徳の家々は回りを石垣で囲んだ屋敷が多かった。しかし今度はそれを乗り越えて一帯が土石に覆われてしまった。
被害家屋2,000棟となる。

ここから見る普賢岳は荒々しい。かつての緑のお山も赤茶けて、山肌には大きな亀裂が走る。
溶岩ドームがにょきにょきと聳え立ち、慈悲をつかさどる仏様・普賢菩薩を祭るお山もすっかり貌を変えてしまった。
普賢さんといっているが、正式な名称は雲仙岳。普賢岳は妙見岳、国見岳と共に雲仙3峰の一つである。
古代より知られたお山で、「高来の峰」と『肥前風土記』にはある。名僧行基が開山したという大乗院満明寺の山号を温泉山といった。
雲仙山とは江戸時代の文人が唱えたようでシーボルトたちによりヨーロッパにも「UNZEN」と紹介されている。
1934年に雲仙が国立公園に指定された時、一般温泉地とまぎらわしいので、温泉山より雲仙山とすると、雲仙と呼ぶようになった。
平成の噴火では2億?の溶岩を噴出し、現在129mも高まり標高1488mとなり、日本で一番新しい山・平成新山と命名された。

安徳の地名の起こりは、源平合戦時に壇ノ浦で敗れた平家とともに幼い安徳天皇が入水され、この地に幼帝の冠が流れついたのを村人が懇ろに祭ったことによる。

7.眉山

街道は眉山直下を通る。
北側の頂上が七面山で818m、日蓮宗の守護神・七面大天女を祭っている。
松平氏入国時に島原の守り神として勧請したもの。南の頂上を天狗山といい713m。
この東側にあった楠平が崩壊、それが寛政の異変の始まりであった。
流出土石3億4,000?が海岸線を約900mも押し広げ77万㎡の土地を生み出した。
九十九島や白土湖、白山や花柴山、瓢箪池や元池などはその時の置き土産だ。いかに大規模だったかがわかる。
大崩壊は大津波を引き起こし10mもの大津波が3回にわたって襲った。
島原だけでなく熊本や天草にも被害を及ぼし、死者だけでも1万5,000人にものぼった。

眉山と雲仙岳(左)

眉山と雲仙岳(左)

眉山の形成は意外に新しく5,000年前という。
溶岩円頂丘で、土質は角閃安山岩といい水を吸収しやすく崩れやすいヤマである。いまでも崩壊している。
昨年の熊本地震時はそれが激しく、新たな危険が迫っているようだ。現在、震度4以上の直下型地震が起こると大崩壊すると専門家は予想する。
おお、くわばらくわばら。

8.災害の跡を巡る

雲仙岳災害記念館~雲仙・普賢岳噴火災害も1998年に終息を宣言、それを受けて翌年に島原地域再生行動計画が立てられた。
その一つとして2006年、この施設が開館。
災害からの復興・再生を目指して全国でも珍しいフィールドミュージアムの火山体験学習施設が造られた。
「平成大噴火シアター」では火砕流と土石流の映像が臨場感あふれる仕掛けで疑似体感できる。
「島原大変劇場」は200年前に起こった寛政大地変の様子を立体紙芝居風に紹介し、子どもにも分かるように工夫されている。

雲仙岳災害記念館

雲仙岳災害記念館

北上木場農業研修所跡~ここは地元の消防団員の災害警戒のための詰め所であった。
あの日、大火砕流が発生して警戒に当たっていた人たちの尊い命が奪われた。
建物の跡に記念のペナント、黒こげの消防車、パトカーなどが残され、災害を忘れない、ふるさと上木場を後世に語り継ぐ場となっている。
また,近くには木場水道の跡や生活道路などが残り、当時がしのばれる。

平成新山ネイチャーセンター~噴火で生まれた平成新山を間近かに眺めることができる垂木台地に2003年完成した。
平成新山の誕生、災害で傷みつけられた自然界の再生の様子などが学習できる。
火山学習のよい場所である。

(次回からはお話し島原の歴史シリーズ10回)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

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島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
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