記事

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の十

今回も島原半島にまつわる歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。では、問題です。

問題はコチラ

Q1 島原半島で最初にキリシタン大名となった人物は?
Q2 島原城が完成したのは西暦何年?
Q3 江戸時代後期、現在の島原市新田町一帯の新田開発をした豪商の名は?
Q4 島原地方で、創刊から1世紀以上も続くローカル新聞の名は?

A1 有馬義直(義貞) ― キリシタン大名 ― 北有馬町・南有馬町 ―

キリスト教が日本に伝わった頃は戦国時代で、各地で武士が領土拡大のために争っていた。
これらの大名の中にはキリスト教との結びつきを深め、洗礼を受けてキリスト教徒になった人もいる。
それをキリシタン大名という。
その最初は大村領主・大村純忠で、1563(永禄6)年に改宗した。
その勧めもあって、有馬義直(義貞)も1576(天正4)年受礼してドン・アンドレを名乗る。
さらにその子・有馬鎮純(晴信)も1580(天正8)年、ヴァリニャーノ巡察師の手で受礼してドン・プロタジオの名を受けた。
この時期、有馬氏は佐賀の龍造寺勢に包囲されていて、領内の城が次々と落とされていた。
また有力武将も多く失った。
この危機に鎮純は洗礼を受けて教会側と強く結びつき、資金や食糧、兵器、火薬などを手に入れて勢力の確保に努めた。
キリシタン大名になると、その保護もあって南蛮船が入港して貿易が盛んになり、その経済的な利益も大きかった。
また西洋文化も領内に浸透していった。

島原半島にキリスト教を広めたヴァリニャーノ巡察師像(口之津港)

A2  1624年 ― 島原城 ― 島原市城内一丁目

島原の新領主となった松倉豊後守重政は、戦国大名の意気込みを持って乗り込み、大規模な築城事業を始めた。
1624(寛永1)年頃には完成し、ここに島原城が誕生した。
前領主・有馬直純が延岡(宮崎県)に転封されると、その後へ松倉重政が五条(奈良県)から入る。
この時、将軍から特命を受けてキリスト教の弾圧に力を注ぐ。
統治の根拠地として新しい居城を島原に置き、同時に島原城下町も整備した。
城外郭は東西350m、南北1200mあって、周囲に3800mの塀を巡らしていた。
内郭は15mの深い堀と石垣に囲まれ、南に片寄って本丸(160×200m)が、その北隣に二の丸(120×120m)、さらに三の丸(150×300m)があった。
本丸には5層の天守閣が高さ32mとそびえ、3層櫓3ヶ所、2層櫓7ヶ所が配置されていた。
三の丸には御殿が置かれ、藩主の居住地と藩庁があった。
上級武士屋敷街が城内に、下級武士屋敷街が城外西側に配置された。
城の東と南側には城下町を配するなど、4万石の大名にしては過分の城構えであった。

築城400周年に向けお色直し中の島原城

A3 中山要右衛門 ― 三好屋新田 ― 島原市新田町 ―

年貢に頼る藩財政を高めるには新しく新田開発が重要となった。
また農民も収入を増やすために新しく土地を切り開いていった。
松平氏の入封後1706(宝永3)年の検地では、領内7116町余であったが、1867(慶応3)年の調査では8749町余と増えている。
つまり160年間に2割増である。
各地で新田開発が進められたが、この三好屋新田は個人で行った最大級のものである。
天保期の全国的な飢饉で島原藩内でも生活困窮者が増加した。
それで藩庁も領民救済に乗り出した。
領内の豪商・豪農へ金や食糧の供出を要請した。
堀長吉は2000両余りを献金するが、中山要右衛門(三好屋)は応じなかった。
「ただお金を与えるだけでは依頼心を起こすだけで、貯蓄心を育てることにはならない」と、困っている人を使って事業を起こすことを提案した。
そしてかねて願い出ていた大手浜の干拓事業の許可を求め、認められた。
労賃を増して多くの人を雇って、片町海岸から800mの堤防を築いて7haの農地を開き、1837(天保8)年に完成した。
それで屋号をとって三好屋新田と呼んでいる。
この他にも、小松屋新田(有家町)や木綿屋新田(島原市)など豪商が開いた新田がある。

三好屋新田を伝える案内板(島原市長浜海岸)

A4 島原新聞 ― 開国新聞 ― 島原市上の町 ―

島原地方には1世紀以上続くローカル新聞がある。
それが「島原新聞」で、全国紙は論外として、一地方紙が百年以上も続いているのは全国で2、3紙しかない。
島原新聞の前身、「開国新聞」は1899(明治32)年8月25日創刊。
島原町で清水繁三が発行人兼編集人となって、タブロイド版2ページの旬刊紙(5,15,25日発行)を発行した。
やがて月6回発行となり、日露戦争の頃には日刊紙となる。
しかし戦後の不況で発行人が筑後新聞へ移ったので、その付録紙として島原で発行が続く。
1913(大正2)年、「島原新聞」と名を変えて再発行するが、1942(昭和17)年3月戦時体制下の言論統制で県1紙の「長崎日報」に統合された。
戦後、1946(昭和21)年12月、再び「新島原新聞」として復刊、現在へ至る。
100年余り、地元に密着した紙面作りに徹して特色あるローカル紙として、その存在を高めている。
島原地方の政治・経済・文化などをよくフォローして、近現代史料の宝庫となっている。

 

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の九
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の八

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の七
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の六
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の五
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の四
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の三
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の二
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
島原半島観世音三十三霊場巡り6「二十九番霊場~三十三番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り5「霊場巡り第二十四番霊場 ~第三十番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り4「十九番霊場~二十三番霊場」
島原半島観世音三十三霊場巡り3「十三番霊場~十八番霊場(南島原市有家町山川名~南有馬町浦田名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 2「八番霊場~十二番霊場 (南島原市深江町~有家町原尾名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑥「口之津港ターミナルビル(外観)」

乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑤「旧口之津鉄道廃線を行く」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~④「島原駅中心」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第2回おとうの見た合戦
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第1回くれ石原をかけめぐる
松尾先生の島原街道アゲイン 最終回 「深江~安中」
松尾先生の島原街道アゲイン「有家~布津」
松尾先生の島原街道アゲイン「北有馬~西有家」
松尾先生の島原街道アゲイン「口之津~南有馬」
松尾先生の島原街道アゲイン「南串山~加津佐」
松尾先生の島原街道アゲイン「千々石~小浜」
松尾先生の島原街道アゲイン「吾妻~愛野」
松尾先生の島原街道アゲイン「国見~瑞穂」
松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

関連記事

イチオシ加盟店

  1. 有限会社サトーコーポレーション(環境エコ事業部)
  2. 山之内

加盟店一覧

最新号

松尾先生

OPINION

こちらもどうぞ!

いいね!もおねがいします

ページ上部へ戻る