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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の八

今回は戦国時代・江戸時代・明治時代の島原半島の歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q1 島原半島にキリスト教が伝わったのは西暦何年?
Q2 藩政時代から島原半島で盛んに飼育されていた家畜は?
Q3 島原大変が発生した時の島原藩主の名は?
Q4 千々石川の豊かな水量に着目して水力発電を開始した人物とは?

A1 西暦1563年 ― キリスト教が島原に広まる(島原半島) ―

フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたキリスト教は、九州西部や東部に浸透していった。
1563(永禄6)年には島原半島にも伝わった。
この直前、大村領主・純忠は横瀬浦(西海町)をポルトガル人に開放し、領内にキリスト教の布教を許した。
また洗礼を受けてキリシタン大名になっていた。
純忠の兄に当たる有馬義直も、口之津港に教会を建てることを許可すると伝えたら、アルメイダ修道士が来て布教した。
そしてまたたく間にキリスト教が広まっていく。
1567(永禄10)年にはポルトガル船が口之津港に入港し、有馬氏は本格的に南蛮貿易に乗り出した。
1576(天正4)年には義直もキリスト教に改宗して、仏教寺院や宿坊を教会側へ寄進した。
こうして領内各地に教会が建てられた。
1579(天正7)年、ローマから派遣されたヴァリニャーノ巡察師が口之津にやってきて、宣教師会議を開いた。
ここで今後の布教方針が決められるなど、島原半島はキリスト教の一大中心地となっていく。

まだれいなの墓 (島原市山寺町)

まだれいなの墓(島原市山寺町)

 

 

A2 馬 ― 島原馬(島原市三会地区ほか) ―

島原半島は藩政時代から馬の飼育が盛んで、島原馬の名を高めていた。
島原藩では1678(延宝6)年、薩摩から種馬を移入したり、御廐方(後の駒方役所)を設置して馬産に力を入れた。
村ごとに駒帳を作り、当歳馬から5歳になるまで馬の異動を記録していた。
毎年春には馬改めといって領内2000頭余りの馬を調べていた。
そして駿馬は御用馬に取り上げたり、他領への移出を禁じた。
また野放ちといって温泉山の原野に放牧したり、駒市(後のホロン子市)を始めたりと、良馬生産を推進した。
明治になってからも続き、1900(明治33)年には南高来郡畜産組合を設立して、組織的な産馬事業に発展させた。
1910(明治43)年の調査では郡内に馬1万2000頭、牛8000頭が飼育されていて、毎年2500頭の馬が取り引きされていた。
1919(大正8)年に郡内で952頭が売り出されて22万3000円を得ている。
農家の重要な副業となっていた。
戦争の時代になった1938(昭和13)年には県立種馬育成場が深江村(深江町)に開かれて、実用的な軍馬の育成が盛んになった。

Q3 品評会の写真(島原市三会 馬頭神社)

Q3 品評会の写真(島原市三会 馬頭神社)

 

A3 松平忠恕 ― 大変流死者供養塔(島原市田町ほか) ―

島原大変は領内で1万もの死者を出すほどの大災害であったから、島原藩にとってはその復旧が大問題であった。
忠恕藩主は守山村(吾妻町)へ引っ越し、心労のためにその地で死亡した程である。
藩庁は被災民の救済へ乗り出し、藩米を払い下げたり、被害を受けた村へ総額59貫15匁を下付した。
村では被害田畑1反あて銀6匁7分、家の間数1間あたり銀8匁5分を分配した。
被害町家には1坪あたり13匁を下付した。
幕府から特別に1万2000両の御手当金を借り受け、また大坂商人や領内の豪農や豪商から多くの借財を得て、これらの資金で復興に務めた。
被害の大きかった多比良・三会・島原・安徳・布津・隈田・南有馬の7村では、それぞれ村の寺に命じて供養を執り行わせ、高さ180cm、幅45cmもある大きな流死者供養塔を建立した。
他にも町人や村人が建てた供養塔も多い。
これらの供養塔は今でも大事にされ、地域の人たちが懇ろに供養をしている。
また地震や津波にまつわる話は現在でも語り継がれている。

Q2 流死者供養塔(島原市中堀町)

Q2 流死者供養塔(島原市中堀町)

A4 城台二三郎 ― 千々石発電所(千々石町木場地区) ―

千々石川の豊かな水量に着目して水力発電の開始を思い付いたのが村の素封家城台二三郎である。
1909(明治42)年、代表社員となって、資本金8万4000円で「小浜水力電気合資会社」を創立。
郡内一円と近くへ供給する電気事業を始めた。
千々石村木場一色に発電所を造り、55kWの電気を起こし、1910(明治43)年に島原半島最初の電灯が灯った。
島原3町村698戸は明るいお正月を迎えることが出来た。
この千々石発電所は長崎県下で最初の営業用水力発電所である。
その後、島原水電株式会社へ組織替えし、資本金も15万円と増資した。
電灯は瞬く間に郡内各地へ広まり、文明の光が各家庭を照らした。
その後発電所を5つに、火力発電所を島原に造り伸びる需要にこたえた。
豊かな水量を誇る千々石川水系であるが、増大する電気消費量には追いつかず、1930(昭和5)年、熊本電気株式会社に吸収合併された。
この時、需要家数3万171戸、動力契約35戸であった。
今でも千々石の5つの発電所は水車を回し続け、電力を送り出している。
その量は千々石町電力消費量の4分の1にしかならないが、けなげにその役割を務めている。
【千々石町「千々石町郷土誌」】【九州電力「ながさきの電力史」】

九州で発電量が一番小さい水力発電所-九州電力千々石第三発電所

九州で発電量が一番小さい水力発電所-九州電力千々石第三発電所

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の七
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の六
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