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人物・島原の歴史シリーズ 「第6回 未来へ続く人々」

島原でも文明開化が始まる。それが島原鉄道の開通、中等教育の広まりなどである。
同時に商工業が発達して人口も増加する。
1940年、人口3万人の島原市が誕生する。時代も明治、大正、昭和、平成と変わり、戦争も起こり世界恐慌にも見舞われる。そして歴史の教訓を得て70年前より平和な民主国家へと生まれ変わる。
平和を希求する西望先生の活動、漁業に科学を導入した古野兄弟、人類に恩恵をもたらした下村博士のノーベル賞、未来へ向かう島原人!!

1.知の文明開化を進めた、清水作次郎(1860~1897)・繁三(1869~1939)兄弟

清水兄弟は、島原一古い升屋・清水家に生まれる。
同家は、初代宗頼・升屋五郎兵衛が天正年間(1573~1591)に島原村森岳山麓に居住。
1614(元和4)年に松倉重政の島原城築城時に現地を拝領する。
酒造を主とし、蝋絞めなども営む商家で、屋敷は島原城外郭南東部の石垣に接する。
大手広場に面する升形にあるから「升屋」の屋号で呼ばれていた。
400年余の歴史ある旧家である。
兄作次郎は1901(明治34)年島原手芸学校、弟繁三は1899(明治32)年開国(島原)新聞を創刊する。
島原の「知」の文明開化を成し遂げ、島原の近代化に大きな力となる。
事実、1899年開国新聞の発行、1900年島原中学校開校、1901年島原手芸学校開校、1902年口之津手芸学校開校、1909年島原水電創立、1910年島原鉄道創業と、島原の文明開化が進んでいく。
11代当主作次郎は町会議員を経て島原町長となる。
さらに数寄屋銀行・島原銀行取締役となり、この間に県立島原中学校が開校して中等学校が始まる。
20世紀は女性の時代となろうと、時代を読み女子教育の充実を考え、私財を投じて旧三の丸の一角に女学校を創立する。
しかし自力ではいかに升屋といえども財力の問題があると、心配も多かったが、私財5000円と校地1000坪を投じる。
氏の急死で、子の作兵衛にバトンが渡される。
やがて郡立校、県立高等女学校となり、1936(昭和11)年に西堀端に新校舎が完成・移転する。
なお永野仲蔵も口之津手芸女学校を創立し、郡内の中等学校進学率が他郡に抜きん出る。
弟繁三は東京専門学校卒後法務官となるが、帰郷して新聞を発行し「開国」新聞と名付ける。
ここに新聞によって国=島原を開く、地域を啓蒙するという意気込みが感じられる。
しかし経営は厳しく一時休刊の憂き目にあうが間もなく復刊。
また戦時統制下に1県1紙統合を余儀なくされるが、今日まで1世紀以上の歴史を刻む。
それは地域密着の新聞、読者参加の新聞で、読者と直結するメディアとして紙面づくりに成功して、島原の地に強く根を張っている。
特色あるローカル紙として存在価値を高めている。
今ではテレビ・ラジオへと広がり、一地方都市でこれまた希有な存在。
島原図書館にはその100年以上分の紙面がマイクロフィルムとして保存されている。
それは島原の近現代史の宝庫といえる。

2.神代のお殿様は外交官、鍋島桂次郎(1860~1933)

1864(元治元)年、兄茂文公が15歳で相続する。
時代は幕末で、幼い領主にとっては大変な時代である。
本藩佐賀は討幕へと大きく動き、戊辰戦争では大軍を派兵する。
神代からも80人余が出陣している。
兄君が早死にするので、弟・桂次郎公が相続する。
公は16歳で長崎英学校へ入学する。
翌年に上京して慶応義塾へ進む。
さらに渡英してケンブリッジ大学に入学する。
しかし茂文公の死去で退学して帰国、1884(明治17)年第16代を相続する。
外務省に勤務し、長年外交官としての道を進む。
英・米・独公使館へ赴任し、大臣官房庶務課長などを歴任。
日清・日露戦争時には大本営勤務、朝鮮特監府外務総長を務める。
また伊藤博文の国内外視察時には随行する。
30年の長きにわたって勤務するが、最後はベルギー公使で終わる。
1916(大正5)年には官選終身貴族院議員となり、子爵に任ぜられる。
業子夫人が亡くなると神代常春寺に祀られる。
墓前に伊藤博文元首相夫人が奉納した石灯篭があり、桂次郎氏の政府高官との強い結びつきが伺われる。
「ふるさとにかねて植えし若杉の栄ゆる園を見るぞ嬉しき」――公は地元の教育に力を入れ、優秀な人を育てる。
18代・保孝氏は戦時中に神代へ疎開されて、島原中学校に通学。
同級生からお殿様の話が今でも聞かれる。
2004(平成16)年に神代鍋島邸が国見町に移管され、国の重要文化財にも指定される。
また同家の文書類は長崎県や佐賀県に寄贈されて守られている。
毎年春、名物の緋寒桜を鑑賞しようと多くの人が訪れる。
邸内で目を引くのが桂次郎閣下の大礼服である。

3.海を拓いて美田とする、大崎連(1851~1929)

有明海には広い干潟がある。
その元は阿蘇山系の火山灰といわれ、有明海に流れ込んで、満潮と干潮にもまれて成長する。
沖へ沖へと干潟は伸び、年に数センチも堆積して、確実にその面積を広げる。
沿岸農民は海から土地を生み出してきた。
長年かけて独自の干拓法を手に入れ、その技術は高い。
大崎連(ムラジ)は山田村庄屋の二男として生まれ、養子に出る。
そして初代山田村長となる。
村の前には広い遠浅のガタ海があり、昔から拓かれて農地を生み出した。
1837(天保8)年には島原藩は阿母崎に長さ600間(1150m)の土手を築いて広さ20町(20ha)の干拓地を得た。
大崎村長はさらに干拓地を広げて村の発展を目指した。
1894(明治28)年に県の許可を得て事業に取り掛かる。
なにせ280町という広大な海を切り開くので難工事の連続。
4年後に9割方進んだときに台風の被害を受け、復旧費だけでも10万円という大損害。
しかし私財を投じても工事再開と意気込む。
改めて計画を練り直し、大崎鼻から二分する中堤防を設けて、先ず東部工区130町に取り掛かる。
やっと1916(大正5)年に完了する。
しかし水門がたびたび破壊されて、死者も出る始末。
負担が大きくのしかかり、大資本が必要となる。
長崎や東京などからも出資を求め、1928(昭和3)年に完成する。
37年かかる。
荒廃したままの西工区150町は、佐賀の弥富貫一により1926(大正15)年再開。
途中大暴風で堤防決壊という被害を受けながらも、1930(昭和5)年に完成する。
この工事に佐賀からやってきた人たちはその地に住みつき、新しく佐富集落を開く。
今、山田干拓地の東西の堤防脇に大崎連と弥富貫一の大きな頌徳碑が建っている。
黄金色の稲穂が夕陽を浴びて一面に輝く光景を目にする時、先人の苦闘が思い出される。

4.たゆまざるあゆみ、北村西望(1884~1987)

先生は南島原市南有馬町白木野に生まれる。
教師を目指して師範学校に入学するが、病気で自宅療養する。
その時、実家の欄間を制作して周りを驚かす。
その欄間の見事な彫刻は島原城に展示されている。
病も回復して、京都美術工芸学校へ進み、さらに1907(明治40)年東京美術学校へ入学、首席で卒業して母校の教授となる。
学生の時から朝倉文夫や建畠大夢と出会い、この二人を目標に創作に励む。
そしてたくましく力感のある男性像を追求して、独特のスタイルを確立する。
文部省主催の展覧会で「怒涛」が最高賞に選ばれ、多くの彫刻を生み出す。
中でも1955(昭和30)年に長崎市平和公園に建立した「平和祈念像」は先生の渾身の作である。
構想から5年の歳月をかけ、また新たな技法、石膏直付法を考案して日本を代表する彫塑界の第一人者と称えられる。
1958(昭和33)年に文化勲章の栄を浴する。
1972(昭和47)年に島原市名誉市民、同時に先生の記念館が島原城辰巳櫓に開館する。
ここには多くの西望名作が集められ、初期の身体美を追求した「拳闘」や母の子を思う優しさあふれる「若き日の母」、齢を重ねるごとにほとばしる力感あふれる「獅子吼」などを目にすることができる。
見事な西望ワールドである。
箴言「たゆまざる 歩みおそろし 蝸牛(カタツムリ)」に、明治・大正・昭和と激動の時代を歩まれた先生の生き様がよく示されている。

 

5.世界的・魚群探知機の発明、古野清孝(1921~2013)・清賢(1926~)兄弟

島原が生んだ世界的発明、それは魚群探知機である。
その発明はまだ戦争の痛手が回復しない1948(昭和23)年、日本の西端・口之津で古野兄弟が生みだしたもの。
その苦闘は、NHKTV・プロジェクトX・挑戦者たち「兄弟10人、海の革命劇」で2001年7月に放送され、大きな感動を与えた。
長男清孝氏は一家10人を養うためにと、1938(昭和13)年に島原中学校を中退して、ラジオ修理や電気工事の店を開く。
港町口之津に移って、漁船や機帆船(輸送船)の発電器や電気設備の工事などに励む。
弟の清賢も兄を助けると、15歳でラジオ技術士と電気工事人の資格を取得。
兄弟の丁寧な仕事は信頼を得て、他地域までも顧客を増やす。
戦争が終わり、長崎近海の漁業関係者が活気づく。
それに合わせて古野兄弟電気店は長崎へ進出。
「漁業はその重要性に関わらず、科学技術の利用が立ち遅れている。
一番の原因は魚を見つける方法とその装置がない」と、清孝は魚を探す技術と方法を夢見る。
旧海軍が開発した「音響測深機」に興味を持ち、漁業に応用できぬかと研究を始める。
「音響測探機は超音波を利用して海底を調べるから、魚の群れも分かるかもしれない」と考える。
幸いに漁業ブームに乗り経営は順調で、今こそ夢の実現へ決意する。
旧海軍技術者に習い、地元の若者を募集して、その研究と開発を進める。
小型漁船でも利用できるよキ呼びされる。
家族が一致して目標に向かう。
協力する網元が五島岩瀬浦に見つかり、そこの漁船に使ってもらいながら数々の問題を解決していく。
器械を設置するために船底に穴をあけてもらう。
こういう努力と改良が積み重なって、1949(昭和24)年8月、歴史的な日を迎える。
魚群に反応した。
網を入れるとイワシとサバの大群で、水揚げは何と4000箱。
カンと経験がすべてだといっていた漁業の世界に科学による革命が起ったのだ。
今では魚群探知機は世界中の漁船の標準装備となって、兄弟会社はトップメーカとなる。
その後も古野兄弟の発明と開発は続く。
今日、社長は3男清之氏、資本金75億円、売上716億円、従業員2800人と大企業へと成長。
母堂マツヨさんは、今日あるのは島原のお陰だと寄付、ご先祖が働いた島原城に記念の「古野梅苑」が出来上がった。

6.ノーベル賞に輝く、下村脩博士(1926~)

2008年ノーベル化学賞を下村脩博士が受賞、緑色発光タンパク質(GFP)の発見と開発の功績を認められた結果だ。と報道されても、博士のことにはあまり関心がなかった。
後で雲仙市瑞穂町伊古が博士の出と分かり、驚きの声が上がる。
実家は江戸時代初期から続く佐賀藩神代領伊古村の庄屋元で、父・力氏は13代目となる。
父が陸軍軍人であったから福知山で生まれ、各地を回り、旧制佐世保中学校に入学、旧制諫早中学校を卒業。
戦時中の学校は勤労動員の生活で勉強どころでない。
旧制高等学校を志すが、内申書を取得できず断念せざるを得ない。
地元の旧制長崎医科大学付属薬学専門部に進学して1951(昭和26)年に卒業。
母校の実験指導員となる。
4年後、安永峻五教授の推薦で名古屋大学の平田義正教授の有機化学研究室へと進む。
研究に没頭して、「ウミホタルのルシフェリンの結晶化」に成功する。
1960(昭和35)年プリンストン大学に留学してジョンソン教授に師事しオワンクラゲを研究する。
帰国して名古屋大学助教授に就任するが、再び渡米。
研究の拠点をアメリカに移す。
そしてウミホタルやオワンクラゲなどの発光生物の発光メカニズムを次々と解明する。
オワンクラゲの採集には家族全員が手伝い、85万個を集めたというエピソ-ドもある。
退職後は自宅に研究所をつくり研究を続け、さらに実績を上げる。
中でもオワンクラゲからイクオリン及び緑色発光タンパク質の発見はその後の研究は生物発光の学問の世界にとどまらず、今日の医学、生物学の重要な研究ツールとして用いられ、医学臨床分野にも大きな影響を及ぼす。
そしてノーベル賞だ。
出身の瑞穂町支所前に記念碑が建っている。
そこには博士の言葉「どんな難しいことも努力すれば何とかなる 絶対あきらめないで頑張ろう」とオワンクラゲの写真が刻まれていて、博士の謙虚なお人柄がうかがわれる。
(次回は「島原の歴史 五十話(古代・中世)」)

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
また毎週月曜日午後12:05時~、島原のラジオ局、FMしまばらで『島原の歴史』を語っています。

松尾先生

前号の記事はこちら。「第5回 新しい時代を切り開く」

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