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松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき

 

〈はじめに〉

2024年は島原城ができて400周年、島原城下町が開かれて400周年となります。
それで島原市では400年記念事業に取りかかっています。
島原の元を築いた人は、松倉重政公です。
どんな人かな? つくった島原城はどんな城かな?
島原の町は400年の歴史を持っています。

島原城を造った松倉重政

1、 お城が取りこわされる

バリ、バリーッ、 ガラ、ガラ、ドッシーン、 ドシーン。
 土ぼこりをあげて、大きな建物が取りこわされてます。
ひとかかえもある大きな材木が落されて、柱が引き倒されました。
もうもうと立ち上る土ほこりが治まると、今まであった美しい大きな御門はがれきのお山です。

 「あーあー、とうとうみんな取りこわされてしまうのか。」

 足元の取りこわしを見ていたお城が、残念そうにつぶやきました。
その間にも取りこわしが続いています。
バリバリ、ドッシーン、、、、、 
明治の新しい世の中になって4年目のことです。
ツユが明けるのを待っていたかのように、取りこわしが始まりました。
 昨年の秋には、三の丸にあったお殿様の御殿が入札払いされました。
そして今日は御門です。
5階建ての白い天守閣だけを残して、主な建物は売り払われました。
ゴ?ッ、ゴ?ッ、、
夏の大風がその天守閣を吹きつけます。
今年の大風は、やけに強く当たるようです。
それもそのはず、お城はすっかり丸坊主になったからです。
 なにしろ明治のご一新で、すっかり新しい世の中に変わってしまいました。
お殿様は東京へ引越され、仕事のなくなった武士たちも、あちこちに去りました。
それでお城も武家屋敷も空家ばかり。
不要な物は早く売りはらおうと新政府へ申請しました。
 <島原城は古い建築で、傷みもひどく、修理の費用も少なくない。
昔は藩の中心地として必要であったが、今では役に立たなくなった。
無用の費用をはぶき、有効な金の使い道を考えたい>
すぐに認められた。
残る天守閣は心なしかさびしく見えました。

天下の名城 島原城

2、 島原城の誕生

「私の誕生は、いつのことだったかな?」
 お城のつぶやきが聞こえます。
しばらくその独り言を、聞いてみましょう。
 あれはずいぶん昔のことでした。
松倉豊後守重政様が新しいお殿様としてやって来たときです。
新領主としてふさわしいお城をつくろうと考えました。
前にいた有馬のお殿様は、原城と日之江城を持っていましたが、領地の南側に片寄っていたので、何かと都合が悪かったのでしょう。

 なにしろ松倉のお殿様は城つくりの名人といわれ、前にいた五条の城をつくったり、各地の城を設計した人です。
こんども新しい領地にふさわしいお城つくりを考え、領内各地を調べて、島原村の北端にある森岳に目をつけました。
森岳は小高い岡で、かつて沖田原の合戦があったとき、有馬・島津の連合軍は、ここに陣地を構えて、龍造寺軍を一気に打破った縁起の良いところです。
また島原の地は、領国のほぼ真ん中にあります。
海をへだてて、熊本や佐賀の町などと取引にも便利で、年とともに商売が盛んになってきた所です。

「よし、ここに新しいお城をつくるぞ!」。

お殿様は迷うことなくきめました。

3、城づくりの苦労

城づくりはまず縄張りといって、土地を測量し、次のような計画を立てました。
 森岳のまわりを掘りこみ、その岡を残して本丸と二の丸をつくる。
本丸には5階建ての天守閣を建て、4隅に3階建ての櫓をおく。
二の丸には馬屋など武器倉をおき、その北側に三の丸をつくり、お殿様の御殿を建てる。
掘り出した土で東側の湿地を埋め立てて、そこへ新しい町人町をつくる。
年が明けたら、さっそく工事開始で、それが1618年、400年前のことです。
村々へ命令が出ました。
村では村人を集めて仕事の割り当てです。
北から南から人々がかり出され、ぞくぞくやって来ました。
地元の島原の人はいうまでもなく、三会や安徳、中木場の村からはとくに多くの人が集められました。
山向うの小浜や千々石の村からもです。
遠い村人は毎日帰れないので、空き地や原っぱに小屋がけをして泊りこみです。
 指導する武士たちも町家に住みつき、お殿様も町はずれの古い城あとに家をかまえます。
 森岳の岡にはたくさんの人々がむらがって、1メートル、2メートル、と掘り進みます。
するとわき水が出て、せっかく掘った土がくずれ、また掘りなおさねばなりません。
そのうえ死者も出る難工事です。
水神様をまつり、おはらいをして工事を続けました。
 同時に石垣を築いていきました。
島原には火山で出来た普賢岳や眉山があります。
その石をかつぎ出し、集めました。
原城や日之江城跡の古い御殿や武家屋敷を取こわして木材を運び、また各地の大木を集めました。
天守閣の心柱は有馬村の天神様の御神木が用いられたといわれます。
本丸には深く広い堀と高い石垣がつくられ、13の突角(折れ)が築かれて、敵の攻撃に死角をつくらない工夫と、城の権威を高めように考えられています。
それでお堀のまわりから見る島原城は見事な構えとなっています。
 熊本や佐賀、久留米の町や長崎の港からは、城内を飾る多くの道具を買入れたり、たくさんの職人もやってきました。
この城づくりで、毎日多くの村人が働かされ、農作業のいそがしいときにもかかわらず、苦役は続きました。
さらにその費用は自前でした。
工事が長くなるにしたがって、人々は疲れはてました。
<7年の歳月がたちました>

4、見あげる白いお城

 1624(寛永元)年のことです。
最後まで残っていた天守閣もできあがり、足場がはずされました。
夏のギラギラした太陽をあびて、真っ白い5階建ての島原城が姿をあらわしたのです。
<私のたんじょうです>
5.7メートルの石垣の上に、高さ27.3メートルの天守閣が、天にもとどくかのように突きたっています。
お殿様を始め、武士も町人も私を見上げて話しています。
33メートルの高さから見ると、その人たちがアリのように小さく見えます。
見つめられる私は得意げです。
鼻高々に、まわりを見わたしました。
すぐ足元の堀端には、家老たちの大きな屋敷があります。
御殿の北側には上級武士の屋敷があって、ここは田をうめたててつくったので田屋敷といいます。
足軽たちは城外の武家屋敷・鉄砲町に住んでいます。
南と東側には商人や職人が集められました。
島原の新しい城下町が出来上がりです。
 私を取りまく城内は東西360メートル、南北1260メートルもあって、そのまわりには矢狭のあるカワラぶきの塀で取りかこんでいます。
その間に7つの城門があって、東南部にはひときわ大きな2階建ての大手門がどっしりとかまえています。
 島原の町人たちは<おらが町・城>と自慢です。
が、村人の中には、喜ぶどころか、白く輝くこの私をうらみの城として仰ぎ見たのです。
この城ができたのをきっかけに、世の中をひっくり返すような大事件が起ころうとは、まだだれも知らないのです。

5、農民軍の攻撃を受ける、島原の乱

 それは私が生まれて12年後のことです。
島原の乱がおき、もう少しで私も焼かれてしまうのかと、それはそれは心配しました。
 その頃はひでりが何年も続き、夕日が気味悪いほど赤く、毎日雲仙の山々や白カベの町家が燃えているかのようでした。
その異常なようすに不安を感じていたときです。
 深江や有家、有馬、三会などの農民たちが一揆を起こして、島原へ押しかけてきました。
城づくりで苦しめられた農民たちは、そのうらみを私に向けたのです。
それはすさまじいものでした。
まわりから攻めよせる農民たちは、町に入ると片っ端から家を燃やし、大手の御門へ押しかけました。
武士からうばった鉄砲や刀、ヤリ、日ごろ使っているカマやクワまでも武器にした大群衆が、次からつぎへとくり出してきました。
 町をおおう火と煙は、この私を包みこむ勢いです。
農民のかん声と鉄砲の音などが、耳をつんざくようです。
思わず私は、目と耳をおおいました。
 恐るおそる目を開いてまわりを見わたすと、ちょうどアリの大群が獲物におそいかかるようでした。
御門をめざしてくり返しくり返し大群が押しよせます。
まわりの石垣にも群がっています。
防ぐ武士も必死で、御門の上や櫓、塀の上からねらい打ちです。
戦いは一日中続きましたが、農民たちは御門を破り、お城を占領することが出来ずにたくさんの死者を残して引き上げました。
いまさらながら、松倉のお殿様が城づくりの名人で、いかに堅固な城をつくったのかが分かりました。
 島原の乱を起こさせた責任を取らされて、お殿様はお取りつぶしになり、その後に高力のお殿様がやって来ました。

白く輝く島原城天守ナ

6、大揺れのお城、島原大変

高力のお殿様も長くは続かず、松平のお殿様へ変わったのです。
新しく島原城へやって来たお殿様は、御殿のまわりにお堀がないのは体裁が悪いとと思ったのか、三の丸の改造に乗り出しました。
それが大問題となり、お殿様も、私も取りつぶしになるところでした。
<城の修理といえども、必ず幕府に許可をとること>と、武家諸法度に違反するといわれ、家老の星野様が責任をとって切腹して、お家安泰となりました。
息をひそめて成り行きを心配していたみんなは、ホッとしたものです。
 平和な暮らしが150年ほど続いたころです。
文字通り天地がひっくり変えるような出来事が起こりました。
それは1792(寛政4)年の、島原大変のときです。
前の年からよく地震が起きていました。
年が明けて4月1日の大地震で眉山がくずれ、大津波がおそい、それはそれはコトバにいい表わせない驚きでした。
この大地震で私も倒れるのでないかと思い、生きた心地もしませんでした。
ゆれる地面を必死の思いでふみこたえたものです。
どうやらイノチは助かりましたが、カワラは落ち、石垣はくずれ、塀は倒れるなど、それは大きな痛手を受けました。
翌朝になってみると、さらにビックリです。
 大手の広場から南側の町家の方は、眉山がくずれたために一面、土と石に埋まり、その先にたくさんの小山と島ができているではありませんか。
足元の御門前や田町の下にたくさんの死人が流れついていました。
大津波にまき込まれて打ち寄せられたのです。
海ぞいの家と田畑はなぎ倒されて。
見渡すかぎり何も残ってはいません。
一夜のうちに島原の町はかき消えてしまったようです。

7、ピンチを切り抜けて

このときも私は生き残ったのです。
このようにいろんなことがありましたが、切り抜けて今まで生きてきました。
しかしそのイノチも、もうわずかでしょう。
 今まで250年余り、この高いところから島原の町の移り変わりを見てきました。
今、その出来事を思い返してみると、夢の中のひとときのようです。
島原の町はどうなっていくのでしょうかね。
10年後、50年後、いや100年後はどうなっているのでしょうか。
もっと長生きして、そのようすを見たい気もしますが、無理なようです。
 「さよなら、お堀の亀さん、長生きしてね」「北の国から毎年やって来て、他国の様子を知らせてくれた鶴さん、ありがとう。
来年はもう会えないかも知れませんね」 まだお城のつぶやきは続いているようですが、その声は吹きだした風にかき消えて、よく聞き取れなくなりました。
(終)

(次回は、からゆきどん万蔵)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

過去の記事はこちら。
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
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