松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!
記事
10.242016
松尾先生のぶらっとさらく島原「第4回 吾妻~愛野」
はじめに
・吾妻町~旧・三室、守山、山田の3地域が合併して、地域の背後に控える吾妻岳より「吾妻」と名付けた。
この吾妻岳より有明海まで山野が広がり、古代より続く豊かな農業地域である。
・愛野町~旧・愛津、野井両村が合併して「愛」「野」の名を頂いた。小さい村・町であるが
島原半島の出入口にあたるから、重要地で古くから関所が置かれていた。
1.大塚古墳
今まで有明海沿いを歩いてきたが、前方に諫早干拓の巨大な水門が見えだした。
こう海岸を歩いているが、誰一人として人を見かけない。すっかり海が変わってしまったね。
街道は広い沖積平野の中に入った。田内・土井・山田・湯田などの河川が造りだした山田平野の中を歩いている。
吾妻岳を頂点に、有明海まで扇状地が広がっていて、県下有数の農業地帯である。今も昔も豊かな“米蔵”である。
田内川の西側にこんもりとした丘がある。そこには一面墓石が並び、地区の共同墓地となっている。
なんと、これが大塚古墳である。島原半島で見られる唯一の前方後円墳だ。前方部が長さ25、幅20mと四角の台地。
後部は直径45、高さ7mのおわん型をしている。歴史の教科書でよく見かける見事な古墳だ。
崩されることなく原形が保たれ、貴重な存在である。
古墳に登り周りを見渡す。足元に円墳があり、陪塚という臣下の墓。また川向うにも細長い古墳があり、いずれも共同墓地。
古代この地に強力な豪族が君臨していたことが分かる。
2.守山庄屋元
また寄り道して庄屋元を訪ねる。ここ中村佐左衛門宅は、あの寛政の大地変時に島原藩主が避難してきたところである。
その様子は『守山村庄屋日記』に詳しい。
「4月朔日暮頃過ぎ、村に山水があふれていると大騒ぎ。高札場に駆けつけてみると、津波が襲っている。
土井に3尺程溢れ、足を入れてみるといつもより温かかった。そのうち山のような波が押し寄せるのでそうそうに逃げた。
」島原から25キロも離れているが津波が来て、大混乱。倒家3軒、土井崩れ70間の被害と生々しい。
「2日、殿様を村境で出迎える。お供は火事装束で、厳重にお守りし弓20張、鉄砲20挺で取り囲み、夕日に輝き勇ましく行進。
(午後5時)お屋敷にお入りなられた。」
殿を迎える庄屋たちは、陣屋建てや警備などで大変。その様子が詳しく記録されている。
「19日、お殿様は御城内見回りにご出馬。
大手門外に床几を立て、町屋の流れた跡や前山の崩れた様子をご覧になり、御落涙なされた。
・・・・26日、御病気いよいよ御大切の様子。お屋敷はことのほか物騒ぎ、みな手に汗を握る思い。
・・・・27日、御病気養生相叶えられず、今朝4時頃、事切られ候なり。さてさて恐れ入り、言葉もなく筆で表すこともできない。
恐れながら平伏仕り候のみ。」
紙面の都合でここまで、後は放送でお聞きください。
忠恕藩主は守山庄屋宅で51歳の生涯を閉じられた。それを庄屋は詳しく書き伝えている。
3.観水塾跡
街道から外れるが「中村観水先生塾跡」と石柱が建つ空屋敷を見つけた。
ここか、吉田松陰が泊まった地は…。それは今から160年前、二度目の島原入りのこと。
江戸遊学中にロシア艦隊が長崎へ入港したと聞いた先生は、はるばる駆けつけた。東海道を急ぎ、瀬戸内海を渡海、豊後街道を歩いて熊本へ。
ここで宮部鼎蔵や横井小楠、当時一流の思想家、政治家と会い議論を交わす。島原へ渡海10月26日着く。
翌朝すぐ長崎へ立つが、黒船は出港した後であった。熊本で7日間も海防論や国の行く末を論じ合った時にプチャーチン提督は軍艦を引き払ったのである。
松陰先生はなぜ、長崎へ駆けつけたのか。ある人は、ロシア船で出国を目論んだという。
先生は行動的な学者であった。かの地の軍事力を実際に目にして我が国の政治のあり方を思考するのである。
さらにペリーに続き長崎にもと聞き矢も楯もたまらず、行動に移したのである。その夜、観水先生とはどんな話を交わしたろうか。
中村観水先生は守山庄屋の二男として生まれる。日田咸宜園で学び、この地に私塾を立てる。
門人百人余といい、領内第一であった。多くの門弟が育っていく。
その中の一人が実弟の中島名左衛門で、長崎で蘭学を学び、高島秋帆の門で洋式砲術を学ぶ。1855年長崎奉行から砲術指南役、その後長州藩の軍事指導に当たる。幕末長州藩は攘夷論で沸き立つ。
馬関海峡通過の外国船を砲撃する有様で、その中で開明的な学者である彼はその無謀さを批判する。
しかし浪人どもに暗殺されてしまう。惜しい人物であった。
4.山田干拓
街道は平野の中を通る。中世の記録に山田庄240丁と広い荘園の存在を述べている。
現在、吾妻町には1000ヘクタールの農地があって、水稲はもちろん、施設園芸に畜産に生産力が高い。
吾妻駅前を通る。大きな農業倉庫が残っている。かつて山田米をびっしりと貯蔵していた蔵である。
道向こうの農協跡地に藤田繁治翁の碑が建つ。氏は明治後期に蚕業取締り所島原支所長として活躍。
雲仙岳の風穴を利用した蚕種の改良と増産を指導して、島原養蚕の名声を高めた人である。
吾妻町にはこれら先人の頌徳碑が数多い。
山田干拓地を見る。280ヘクタールの水田が広がる。
しかしこの造成には長い苦難の歴史があった。有明海もこの沖ともなると、厚さ数十mの泥土が積み重なる。
何千年万年もの長い間に河川が運んできた土がガタとなったためだ。また干満の差が大きい海であるから、干潮時には広大な遠浅の浜を生む。
この海を農地に変えたいと思うのは、今も昔も同じである。
1893年大崎連氏は山田川岸から愛野有明川岸を結ぶ延長4キロの堤防を築き、一気に280町の大農地を拓こうと計画。
沖合の三ツ島から石材を運び、堤防を造り、4年間順調に進む。しかし台風による高波で堤防が切れ、元の海へと舞い戻る。
復旧費だけで10万円と大打撃を受けるが、私財を投げうって工事を再開する。
計画を練り直して、大熊鼻から真っすぐ中堤を築いて東西に2分割してやっと完了。
だが、田植えを始めることなく水門が何度も打ち破られ、補修時に死者が出るありさま。
また暴風で堤防全体が打ち破られてまたもや大被害。氏の負担はますます大きくなり、大資本が必要となる。
出資者を他に求めざるを得なくなる。その他、千鳥川をめぐる愛野村との対立などと苦難は続く。
その干拓も1930年、実に37年目に完成するのである。第2工区も佐賀の弥富寛一氏により1926年から5年かけて完成する。
この大堤防の両端に、東側に大崎連翁の大きな記念碑、西側に弥冨寛一氏の碑が建つ。
それなのに、この地先にはさらに巨大な諫早湾干拓地ができた。
農地670ヘクタール、調整池2600ヘクタールもあるので、環境問題、漁業問題を引き起こし、大規模開発の在り方が強く問われている。
5.愛のまち
吾妻町阿母崎から愛野町新崎へと進む。千鳥川を渡る。
昔はこの辺りは海で、下流に堤防を築いて海を干上げて20町の水田が生まれた。
村では初穂をお殿様に献上したとの記録がある。このあたりの人はガタとともに暮らしていた。
ガタを掘上げて乾燥させて肥料とする。また堤防の修理や補強も大事な仕事であった。
もうそのガタも目にできない。光西寺前を歩く。通りは江戸・明治の面影をよく残す歴史の香りが高い街並みだ。
愛野駅に着く。
八角トンガリ屋根に十字架を立てた駅舎である。
壁には「愛しの阿妻(ワガツマ」と書かれ、その「愛野駅~吾妻駅」の記念キップが売られている。
1911年、まずここまで島原鉄道が開通し、6月20日に一番列車が発車した。鉄道の開通は島原半島の文明開化がここに始まったといっていいくらい。
島鉄最初の機関車は、「汽笛一声新橋を、、」と歌われた日本最初の一号機関車である。今、さいたま市の鉄道博物館に展示されている。
愛野町は「愛のまち」で、駅前にふれあいの像が建てられ、台石に
「愛が生まれる
愛の育む
愛の町から
あなたの心に
愛の灯を!」
と“愛の詩”が刻まれている。
6.土居口
小学校前、中学校下を通り、合津城跡の末端に旧藩時代の関所跡がある。
ここから千々石湾岸原口まで1.3キロ間に生垣や竹もがりを造り、かってな通行を禁じた。
番頭2人番人15人が厳しく通行人を監視していた。ここは島原領の出入口であったから、有馬氏時代から城を構えて家臣に守備させていた。
また東西の海(津)が出会う地で合津という。次第に陸地化が進み、干拓の歴史が始まる。
大江(有明川)の上流部から干拓が始まり、江戸中期から記録され、「新田」と名のつく地名がそうだ。
さらに下流部の野井地区でも同様で、明治期までに干し上げる。その面積は100ヘクタールといい、全水田の半分を占める。
愛野の人たちは海から土地を生み出したのである。
7.愛津庄屋元
関所のすぐ近くに愛津庄屋元がある。
島原藩では庄屋宅を本陣とし、公的宿舎としていたから、ここ深浦家に宿泊した人も多い。
伊能忠敬は幕府測量方として全国測量して日本全図を作成していた。8回目の測量行脚で1812年に島原へ来た。
11月4日朝6時、森山村唐津出発。
板谷川を渡る。幅13間、川中に境界あり――と島原領内に第一歩を印した。
そしてその夜は愛津村庄屋宅に泊まる。測量方は伊能をはじめ一行10名で、それに島原藩役人がつく。
また荷物運びなど庄屋に動員された農民がつく。
翌日は愛津村土居口より始め、山田・守山と進み西郷村宮崎庄屋宅に泊まる。
そしてぐるりと島原半島を回り、19日出国した。愛津村深浦庄屋たちがお礼と別れの挨拶を述べる。
坂本龍馬もやって来た。
1864年勝海舟の長崎出張に同行してだ。この時代国内政治は混乱していた。
長州藩は攘夷といい、通過するアメリカ船などを攻撃する。そしたら4か国連合艦隊は下関砲台攻撃を準備するなど、我が国は危機を迎えていた。
勝は長崎へ急行して連合国側との調停にあたる。
龍馬たち若者十数人を引き連れて大坂を出帆、佐賀関(大分県)に上陸して熊本へ、2月21日夜高橋を出て、22日早朝に島原湊着。
島原城下古町別当中村家で休息してすぐ出発、溶岩様石交りの悪路を通る…と、勝海舟日記に書いているから、杉谷・魚洗川・田代・千々石断層を横切ったのだろう。
この道は山道だが近道で、長崎へ急ぐ彼らにはこのコースをたどったに違いない。
その夜は愛津庄屋深浦家で一泊、翌朝長崎へ。帰路も島原は通る。4月4日長崎出立、矢上で昼食。
野井村庄屋宅で一泊。5日島原に着き一泊して熊本へ渡海。愛津庄屋深浦家は建物こそ変わるが屋敷と庭園はそのまま。
勝先生や龍馬が見たであろう景色を追体験できるのです。
(次回は、千々石から小浜まで)
先生の紹介
過去の記事はこちら。
松尾先生の島原街道アゲイン「国見~瑞穂」
松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
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島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
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「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」