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松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵

 

〈はじめに〉

藩政時代は宗門改が厳しかったから、離村は難しかった。
明治のご一新で自由になると、仕事を求めて海外に出掛ける人も多かった。
そして「ファーストジャパニーズ」となり、移住先の発展に功績のある人も現われる。
その中の1人が、口之津出身の永野万蔵だ。
カナダ移民の第一号となり、カナダ政府はその名前を永遠にとどめようと、当地には<マウント・ナガノマンゾー>と命名した山があり、日加友好の記念碑となっている。
また土黒出身の島田元太郎はシベリアへ渡り、その地域の経済発展と大きな業績を残している。

口之津港の賑わい

1、 口之津の港

「お母さん、お母さん、口之津の人が、、、、口之津の人が、、、」。
里子さんの声にびっくりして、お母さんがエプロンで手を拭きながらやってきました。
「なんね、そんな大声を出して」 「お母さん、口之津の人が、永野万蔵っていう人がカナダ移民の最初だと!」 夕方です。
ニュースの放送が続いています。
―― 今、カナダ各地で日系カナダ100年祭が行われていますが、このカナダ移民は1877(明治10)年の春、長崎県口之津町出身の永野万蔵によって始められたものです――― 里子さんは口之津の小学校6年生です。
郷土の歴史を勉強しています。
さっそく永野さんについて調べる事にしました。
港の入口にある、昔の税関あとに開かれた「口之津民俗歴史資料館」へ行き、そこで館長の白石先生にいろいろと教えて頂きました。
親せきの永野さん宅や、近くの玉泉寺に残っているお墓なども訪ねました。
里子さんが調べた永野万蔵の話を聞いてみましょう。

若い日の万蔵

2、 口之津貿易港

万蔵がカナダに渡った明治の初めごろ、口之津の港は石炭の輸出港として大変栄えていました。
昔から有明海の出入り口にあるので、風待ちや潮まちのために利用されていて、多くの船がやってきました。
400年ほど前には、ポルトガルからの船も入港していて、ヨーロッパの文化や宣教師たちもやってきました。
キリシタンの盛んだったところでもあったのです。
長崎にも黒船がやってきて、ふたたび日本が世界に開かれるようになった1855年、万蔵が生まれました。
父の喜平は狭い畑を耕しながら、近くの海で魚をとったり、母のタネはたくさんの子どもを育てるのが忙しい毎日でした。
そのころの子どもは誰でも10歳を過ぎると働きに出なくてはなりません。
万蔵も同じです。
船大工の見習いになりました。
港に泊っていく外国船の修理の時です。
甲板でペンキを塗っていると康吉兄いに出会いました。
小さい時に遊んでもらった康吉兄いは、もう一人前の船員になっていました。
「兄しゃん。なして、こん船に乗っとると?」
「唐や天竺(中国やインドなど外国のこと)さ、行けるけんたい。また、金ばたいそうもらゆっとぞ!」
昼の休みには、船室まで入りこんで、珍しい外国の話をいろいろと聞きました。
万蔵は眼を輝かして聞いています。
「おどんも、唐へ行ってみたか」
それからというものは、唐や天竺の夢ばかり見ていました。

3、 始めて見る外国

18歳になったときです。
その夢が実現するときがやってきました。
イギリス人の船長が船員の見習いとして働いてみてはどうかというのです。
「イ、イエス・サー」万蔵はたったひとつ知っている英語で、すぐに返事をしました。
その日は早帰りをして、父や母に相談しました。
父はもちろん賛成です。
「万蔵、お前ももう一人前たい。
自分でよかごて決めろ。
たくさん金ばかせいで、嫁ごばもらえるごて、せにゃいかんたい」口之津で、石炭をいっぱい積みこんだイギリス船に乗り込んで、すぐ出発です。
遠い異国への旅立ちですが、ボイラーの石炭運びの仕事で忙しいので、別れを惜しむ暇もありません。
ほっと一息ついたのは、大海原のど真ん中でした。
初めてみる中国やインドの港では、おどろくことばかりです。
色の黒い人、白い人、赤い人といろいろで、そんな人たちで混雑しています。
長崎の何十倍もの人が行き来しています。
人が売り買いされているのを見たときは、驚きでした。
「50ドル、50ドルだよ、買わないか」口之津にいる妹のような人が、いま取引されているのです。
万蔵の目は怒りでいっぱいです。
手を握りしめて、ぶるぶるふるえています。
飛びかかっていきたい気持ちですが、いまは、どうすることもできません。
そのころの長崎や口之津の港からは、からゆきさんといわれて、女の人が連れ去られて、そして外国で売られていたのです。
「ようし、人を売らなくていいように、みんなを豊かにしてやるぞ。
今に見ておれ」万蔵は商売で、お金もうけを考えました。

 

4、 カナダへ上陸

カナダのニューウエストミンスター港に着いたときのです。
ここでこっそり逃げ出して上陸し、仕事を始めることにしました。
しかし、誰も知り合いがいない異国では、暮らしは楽ではありません。
手持ちの金も残り少なくなりました。
そこで、川や海にいっぱいいるサケに目をつけて、漁業を始める事にしました。
同じ移民のイタリア人ポルコと組んで、ボートを乗り出しました。
魚の良くいる漁場を見つけたり、網の入れ方ではだれにも負けません。
小さいころに父と魚取りした経験が役に立ったのです。
面白いほどサケが取れました。
まずは成功です。
もっとお金をかせごうと、港の人夫になりました。
漁業にくらべると、仕事はきついが多くかせげます。
大きな材木を白人にまじって船へ積み込まなくてはなりません。
「マンゾーは鉄の心臓をもっている」小がらな万蔵ですが、疲れを知らない仕事ぶりに大男たちは驚いています。

5、 久々の帰国

29歳になったときです。
中国へ労働者を集めに行く仕事をしました。
500人ほどの人夫をカナダに運ぶ途中、郷里に立ち寄ることができました。
11年ぶりに見る口之津は、石炭の輸出港として活気にあふれています。
5000トンもの大型船が何そうも浮かんでいます。
そこへ石炭と人夫を積んだダンベイ船が横付けします。
人夫たちは持ってきたカガリ(ザル)で石炭を運び入れます。
「ヤンチョイ、ヤンチョイ、ヤンチョイ、、、、」「ホイキタ、ドッコイ、ホイキタドッコイ」ダンベイ船から大型船の船倉まで、何十人も群がり、リレー式に1パイ、10パイ、百パイと、石炭を運び込みます。
またたく間に10トン、100トンと積み込みました。
石炭を一杯飲み込んだ船は、つぎつぎと出航していきました。
外国船や外人はちっとも珍しくない口之津の人ですが、カナダから帰ってきた人を見るのは初めてです。
村長さんを始め、多くの人が万蔵をたずねてきました。
そして珍しい話に耳を傾けました。
「カナダではのう、川や海にサケがあふれちょっとぞ。
手でつかみどりたい」「ヘェーおどんも行ってみたか」「また賃金も高こうてね、口之津の10倍も、20倍ものお金が稼ぐっとぞ」「おいも、連れて行ってくれなへい」久しぶりに帰った万蔵は得意そうでした。
このまま口之津にとどまりたいと思いましたが、商売で大金を儲けたいという夢があります。

6、 サーモン・キング

カナダに戻った万蔵は、いままで稼いだお金で、近くの町シアトルで小店を開き、商売の道を歩き始めました。
さらにレストランも開店させて大繁盛です。
やっと安定した生活が送れるようになった万蔵は、ツヤと結婚しました。
35歳のときです。
やがて長男が生まれ、ジョージ辰夫と名付けました。
そして、万蔵の名前を決定的にした塩サケの製造・輸出に成功したのです。
カナダには大型の良いサケがたくさんいます。
それを塩付けにして日本へ売り出そうというのです。
今までだれも考え付かなかったし、実行できなかった事をやったので、大当たりしました。
一回の輸出で数千ドルもの利益を上げました。
さらに手を広げ、日本美術や民芸品店を開いたり、捕鯨船の船員をあっ旋したりして、実業家としての地位をがっちり固めました。
また次第に増えた日本人の利益を守り、助け合うために日本人クラブをつくって、みんなを指導しました。
そんな万蔵をみんなは、『サーモン・キング(サケの王様)』といって尊敬しました。

7、 忍び寄る、黒い影

順調な商売です。
バンクーバーの大通りにレンガ造りの豪華な3階建てのビルを建てました。
玄関の上には大きな看板が輝いています。
<J・M・NAGANO・Co>町では、だれでもナガノ商会を知らない者はいません。
しかし、忍び寄る黒い影があるのを万蔵は知りません。
日本からの移民が増えてくると、仕事を奪われる白人たちは日本人をしめ出そうとしたのです。
なかでも日本人が多数を占めていた漁業では、きびしい制限を受けました。
それで前のように、塩サケでは大儲けが望めなくなりました。
日本の美術品の売り上げも増えません。
そんな中に、第一次世界大戦が始まり、貿易が出来にくくなりました。
「商売が思わしくないでかな、どうもこの頃は身体の調子が良くないわい」
ある日のことです。
万蔵は珍しく弱音をはきました。
かつて、<鉄の心臓>の持ち主といわれた万蔵がです。
60年もの間、働き続けだった身体が病魔に少しずつむしばまれていたのです。
病院の診察の結果、結核の疑いがあるといわれ、入院することになりました。
悪いことは続くものです。
そんな時にマンゾービルが火事になりました。
店に置いていた美術品も、重要な書類やたくさんのお金が灰となってしまったのです。
万蔵の力落としは見るも無残なくらいでした。
「今年の冬は厳しいのう。ああ、口之津の温かい海が懐かしい。郷里に帰りたいなあ」
見舞いに駆けつけた子どもたちに別れを告げ、カナダを引揚げることになりました。

8、 マウント・マンゾー

口之津に帰った万蔵は、温かい親せきや古里の人たちの世話を受け、しみじみと古里の有難さを感じました。
毎日海を眺めたり、話を聞くに来る人を相手にしたりで、療養しました。
しかし病魔は去りません。
長崎の大学病院でも治療を受けましたが、良くなりません。
海のよく見える部屋で、万蔵は息を引き取りました。
1924(大正13)年の春のことです。
海がキラキラと光っていました。
「サケが来た。サケが来たぞー」
それは万蔵がいたカナダの海のようでした。
里子さんが万蔵について調べたことを発表している頃です。
新聞に小さな記事が出ていました。
――カナダ政府地図委員会は、永野万蔵が活躍したバンクーバー市付近の2000メートルの山を、<マウント・ナガノマンゾー(万蔵山)>と命名することにした。
彼の名前を永遠に伝え、カナダと日本の友好のきずなを強めるために、、、、
(終)

次回は、「一号機関車、出発!」

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

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