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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の六

今回は江戸時代と明治時代の島原半島にまつわる歴史のクイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q1 松倉氏が島原城築城と同時に作った城下町には3町がありましたが、その町名は?
Q2 明治時代、島原半島でも養蚕・製糸業が盛んになりましたが、天然の冷蔵庫として蚕の保存に活用されていた雲仙岳の場所とは?
Q3 島原大変の後、水が枯れた中木場村に水道を敷設した庄屋の名は?
Q4 島原藩最後の藩主、松平忠和の父親の名は?

A1 古町・新町・三会町 ― 島原城下町(島原市上の町一帯) ―

松倉氏が島原城を築くと同時に島原城下町も築造した。
そして3人の町別当を置いて町人を管理させた。
城下には3町があって、古町、新町、三会町と呼ばれていた。
それぞれ中村孫右衛門、隈部杢左衛門、姉川伊兵衛が別当となり、その下に4~5人の乙名がいた。
1707(宝永4)年の調査で、家屋数1213軒、人口7971(男4033、女3938)人であった。
今でも中村家は存続し、その屋敷門が残る。
木造瓦葺きで入母屋造りの堂々とした門構えは、間口10.1m、奥行き3.1mの31坪半、左右に中間部屋を持つ。
欅材の門扉は幅2.9m、高さ2.4mで、島原町人の勢力を示している。
島原藩では別当家を本陣としていたから、伊能忠敬や勝海舟、坂本龍馬などがこの門を出入し、ここに宿泊している。

昔から変わらない街並み(島原市上の町)

昔から変わらない街並み(島原市上の町)

 

 

A2 風穴 ― 盛んな養蚕・製糸業(島原半島) ―

政府の殖産興業政策で、島原地方でも養蚕業が発達した。
江戸時代から盛んだった木綿織物業の地盤があったからこそ、明治になるとさらに栄えるのである。
旧藩士の草野覚徳は士族の授産事業として本格的に養蚕業を始め、先進地へ出かけて研究、技術の導入を図って、その推進者となった。
明治中期(1880年頃)で上繭275石、玉繭38石の生産を上げ、生糸の生産は160貫目、6100円の利益を得た。
雲仙岳に風穴という火口跡があるが、そこは天然の冷蔵庫であり、蚕の保存場に良いと活用されていた。
大正末(1920年頃)では10万枚の蚕種を作り出し九州各県へ売り出していた。
1917(大正6)年には繭10包で90銭であったから、農家に100円以上の収入があった。
当然桑畑が増えて、1反あたり100円以上の収入があった。
製糸業も進み、大正末から昭和初年には8の工場が操業して、二百数十万円の生産をあげていた。
1928(昭和3)年の調査では繭の生産56万貫目、335万円の産額であった。
これは県内生産の6割を占めている。
養蚕業は農家の良い副業として村を潤した。
そこで県では島原町に養蚕試験場を置き、養蚕取締所を開き、新しい技術を持つ技術者の養成を図り、養蚕業の発展に努めた。
<入江?「島原の歴史・自治編」>

生糸と整繭器(島原城民具資料館)

生糸と整繭器(島原城民具資料館)

 

A3 下田吉兵衛 ― 木場水道(島原市安中地区) ―

島原大変は島原領内の村むらへ大きな被害を与えた。
普賢岳の山麓にある中木場村(島原市安中地区)はその被害が大きかった。
噴火で避難生活を余儀なくされるし、大地変のために村内の水脈が枯れて日常生活が出来ない事が長く続いた。
そこで庄屋を中心に村人は水源を探しまわり、ついに発見。
そこから水道を引くことに成功した。
これが木場水道・清水川である。
庄屋の下田吉兵衛は18ヶ所も井戸を掘るが水が得られない。
ある夜、夢枕に現れた「岩上山麓に水の湧き出すところあり」のお告げに、念願の水源を発見できた。
村人と協力して水道を引くことになった。
村まで約5kmの間、木樋で水を導き、1821(文政4)年に完成した。
おかげで村内300戸、7町の田畑がその恩恵を受けた。
しかし年と共に木樋の水道は痛みがひどく、年々の修理費がかさむ。
そこで1858(安政5)年、切石で水路を作り、総工費65貫文で水道を改修した。
それ以来、長年村人に利用されてきたが、平成の普賢岳噴火災害で水源は厚い土砂のために埋没して、水路も寸断されてしまった。
今では雑草に覆われた水路の一部と、水汲場の梅型の水盤がさびしく残るだけである。

木場水道跡(島原市門内町天満神社

木場水道跡(島原市門内町天満神社

A4 徳川斉昭 ― 島原藩滅亡(島原市城内一丁目) ―

最後の島原藩主忠和は、水戸藩主・烈公斉昭の子で、最後の将軍となる慶喜の弟である。
国内は尊王討幕へ急速に動きつつあり、特に近隣諸藩はそうであった。
その中で島原藩は幕藩体制維持を基本的態度として、1862(文久2)年に新藩主を迎えた。
藩内では重臣らの温和思想にもの足らずに過激な行動へ出る若者もいた。
二度にわたる長州征伐に島原藩兵も出兵。
藩兵の一部は小倉城攻防に参戦したり、軍勢を豊後高田に待機させて情勢を眺めたりと、佐幕派に同調的であった。
1867(慶応3)年、将軍慶喜が大政の奉還を上奏した頃には藩主は病床にあって、「城内では大吟味で昼夜相詰めて……、色々評論に相及び……」との状態であった。
やっと家老・板倉勝直が上京して朝廷に忠誠を誓うのである。
そして奥州出征を命じられた。
島原藩では159人が大砲2門を引いて1868(明治1)年8月から12月まで参戦して、一応面目を立てた。
翌1869年4月、藩主が上京して版籍の奉還を願い出て、その返上が認められた。
ここに有馬氏以来2世紀半に及ぶ島原藩政が終わった。

松平忠和公(図説島原半島の歴史から)

松平忠和公(図説島原半島の歴史から)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の五
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