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8.232017
松尾先生のぶらっとさらく島原 第9回 有家~布津
〈はじめに〉
有家は大きな町である。
またその成り立ちは複雑で、島原の乱時は有家村といい、今の有家・西有家を含んでいた。
その後、有田村・有家町村・隈田村に分かれ、それぞれに庄屋が置かれていた。
明治になってその3村は合併し、1879年に再び東有家村と西有家村に分離した。
その時に村境を有家川にしたので、旧隈田村久保は有家に加えられている。
堂崎村の有家町合併は1956年のことだ。
1.有家町屋
明治中期の様子を著した『南高来郡町村要覧』に、「この村(東有家村)は豪商多く、商業島原に次ぎ、南目第一なり。
また多くの土地を有するものありて、本村人の他町村に有する者の地価4万9千余円にあがり、、、」。
また地価1万円以上所有の大地主が5名と、郡内の6分の1を占めて島原町よりも多い。
刻み煙草製造2軒、清酒製造1、蝋締め12、樟脳製造4、素麺製造51、質屋5、呉服太物商6、居商62店と記述されている。
南目は葉タバコの特産地で、有家の製造販売は島原や近郊の町村だけでなく、県外や東京までも出荷していた。
今でも旧家大店が多く街道に面していて、当時の繁栄ぶりが目に浮かぶ。
2.亀渕橋
町境の有家川を渡る。架かる橋は亀渕橋。橋といえどもコンクリート道が通るだけ。
何と潜水橋で、大雨時には川の中に沈み込む仕組み。昔からの知恵である。
ここも1780年に隈田村の豪商尾崎本家が石橋を架ける。その功績をたたえ、藩主は米5俵を賜う。
しかし2年後には流される。
何せ有家川は大河で、川幅33mもあり、当時の技術では強固な橋造りは無理だったろう。
明治になってここの下流に県道を通し、木製の大橋を架ける。
以来すっかり忘れられてしまう亀渕橋だが、その鏡柱は近くの尾崎本家に残されているそうだ。
メインストリートとなった県道端には土地が生んだ有家のスーパーマン・鷲が浜音右衛門の大きな墓が建っている。
江戸大相撲で島原の名を広め、藩主お抱えの力士となり、22両の給金を頂いている。
なお近くの熊野神社には奉納した鷲の絵入りの手洗い鉢がある。
3.有家温泉神社
町屋の中を山手へ進むと温泉神社だ。
この道は小川港から続く参道で、1里ほど続く。
昔は松並木があって、3、2、1の鳥居が建つ。
温泉神社は701年、雲仙に温泉山四面宮が創立されて以来、その末社として有江の神が勧請されてこの地に開かれたもの。
温泉神社は九州諸侯の崇敬が厚く、毎年参拝するのを常としていた。
しかし山道は険しく登山を略することが多く、ここ有家の温泉神社に詣でて、祭典を執り行ってた。
また島原藩主も、病気平癒祈願や五穀豊穣祈願をたびたび行っていたところである。
大鳥居をくくり、神橋を渡る。
神明造瓦葺の神門を通り、番神の矢大神を見て本殿に詣でる。
総檜材の銅板葺きの建物で、さすが今も昔も島原半島第一の神社である。
境内には創建時から盛んであったろう修験道の金剛院の跡やその当時の五輪塔、宝篋印塔や仏石などが数多く残されている。
キリシタンの神仏破壊の命に取り壊されたものか、四面宮遺跡苑としてまとめて保存されている。
クスの大木の下にたたずみ、有家の古い歴史を思い浮かべる。
4.専念寺
町屋のはずれに専念寺が建つ。
鳥居と見間違うような石造りの大門があり、その奥に18m四方もある御堂がある。
高力忠房の創建で、島原の乱で荒廃したこの地に、仏の教えを広めて村の再建を図ろうとの施策だ。
広い境内にはマキの大樹がある。
幹の周り6mもあって、うっそうと茂っている。
高力藩主のお手植えの木と碑が添えられている。
以来360年、信徒を見守り続けてきたものだ。
寺の周りは、B29機の爆撃を受けたところである。
こんなところも戦争の被害があったのだ。
昭和19年11月21日昼頃、突然B29爆撃機の編隊が襲来、数十発の爆弾と焼夷弾を投下して飛び去る。
250キロ爆弾の直撃を受けた。
家は吹き飛び跡形もない、水田には10mもの大穴ができ、身近に体験した戦争の恐ろしさと共に、語り草となっていた。
この爆撃で9名の人が亡くなっている。
街道は国道となって蒲河へと出る。
この下流一帯は干拓地で、寛政の大地変後の農村の立て直し策として、有田村庄屋と村人が切り開いたもの。
一応2haの新田を生み出すが、さらに広く、高波でも破られない新田としようと、土地の豪農荒木家が城下町の豪商小松屋に開発を依頼することになった。
100両の資金と多くの労力をかけて、1846年に6haの新田開発が終わる。
それがここ小松屋新田だ。
5.堂崎浜
堂崎浜を歩いている。
古い家並から浜風がして、かつては港として栄えた名残だ。
藩政時代は領内7つの津口で、船揚げの口銭徴収などの役所があった。
また藩主の天草巡視時などここから出発していた記録もある。
明治になると沿岸航路が開かれて、島原湊から南目各港をぬって口之津や千々石から長崎への航路も開かれていた。
対岸の三角直行便も開かれていた。
今でも1857年に築かれた波止場が残っている。
その海の道を大きく変えたのが、1922年の口之津鉄道の開通だ。
まずここ堂崎まで開通し、南有馬、加津佐と延びてゆく。
おっと書き忘れるところだったが、堂崎地区が一望できる高台に天満宮がある。いわずと知れた堂崎の氏神様だ。
その坂道には石畳が敷き詰められ、その隙間には芝が生えていて歩きやすい。楽しみながらゆっくりと通る。
登り口に“下往還・殿様道”と石柱があって、旧町の文化財として大切に保護されている。
またその下、古城川にはめがね橋があったが、これは有家町民公園へ移築されている。
車時代からすっかり取り残された街道だが、ちゃんと保護されていることがうれしい。
6.坊主坂・布津庄屋元
坊主坂に差し掛かる。
何やらいわれがありそうで、調べてみたら、ここに女の幽霊がよく出ていたそうで、それで地蔵様を祭り、祠を立てている。
宝暦6(1756)年奉納の地蔵尊が三界万霊塔の上に安置され、両側面には清七、甚三郎など奉納した人の名がずらり。
みんな土地の人だろう。今も懇ろに祭られている。手を合わせて通る。畑越しに貝崎城址が見える。
有馬大右衛門の居城だったところ。
円通寺という曹洞宗の寺がある。
山門は鐘撞堂を乗せた造りで珍しい。
近くに旧布津村庄屋・田浦市郎右衛門宅がある。
伊能忠敬が島原領測量時に宿泊地となったところだ。
1812年11月11日島原を出て、安徳・深江両村を測量、布津湯田海辺で終わり、午後6時に到着した。
「伊能忠敬日記」を見ると、「庭前に名松あり、長さ20m、横16m、高さ1.2m、年数67~8年になるという。
他にない作松なり」とある。
もう200年も大昔だから伝わっていないのは当然かもしれない。
しかし全国を回ってよく知っている忠敬先生が褒めて記録するぐらいだから「名松」だったろう。
翌朝伊能一行は氷雨の中を南目各村へ進む。
7.布津断層・新川めがね橋
三本松まで布津のなだらかな大地を歩いてきたが、急な下り坂となる。
布津断層面である。
その高さは40~50mはあろう。
その中を新川が流れ、海へと走る。
ここから小浜町金浜を結ぶ線と千々石・七面山線に囲まれ地域は雲仙地溝帯で、そこに雲仙3山や眉山などの火山が噴出し、そして崩壊したところでもある。
島原半島は南北に1年間に数ミリずつ引き裂かれているそうで、そんな地球の動きの中で私たちは暮らしているのだ。
街道が新川を渡るところに石橋がある。
橋柱に嘉永6(1853)年5月架橋、石工・平治兵衛、世話人・松島惣五郎、原徳兵衛などの名が読み取れる。
山石と呼ばれる地元の石を利用して、アーチ型に組み立てた見事なめがね橋である。
川底から3.5mの高さに、長さ8m、幅3mの橋を架けて160年たつ今でも立派にその役目を果たしている。
この橋でどれだけの村人や旅人が恩恵を受けたことであろうか。
川留めもなく、楽に通行できるようになり、交通と産業の発展にどれだけ役立ってきたか。
訪ねた各地のめがね橋が藩の力を借りるだけでなく、土地の有力者や村みんなで架けている。
村や地域の発展へ彼らの架けた心意気に感服する。
8.大変供養塔
街道から離れるが、大崎鼻へ進む。有明海へ突き出た岬で、布津断層が有明海へ沈む地点である。
展望の良いところでもあり、なだらかな眉山・普賢の山並みと静かな有明海は、一枚の絵を見るようである。
20年もその昔、雲仙岳の噴火活動が盛んなときは、この一帯が撮影ポイントとなって、カメラマンたちで賑わっていた。
この岬の上に大変供養塔が建っている。寛政の大地変の翌年、藩命で領内7か所に
建てられたものの一つである。
布津村も被害が大きかった。津波は高さ45mとなって、大崎鼻を乗り越えたという。
31haの田畑が洗われて、流失家屋66軒、死者156人を出している。この岬にも多くの流死者が漂着したろう。
そこで供養塔を建て、土地の寺に供養させたもの。
高さ1.8m、幅60cm、奥行き45cmの堂々とした石塔である。
碑文には“流死菩提供養塔”と力強い字体で、深さ3cmの薬研彫で刻まれている。
そしてはるか島原の方を向いて建てられている。
眺めていると、穏やかな風景であるが、二度も猛威を振るった自然界の不思議さと偉大さを考えさせられる。
(次回は深江から島原安中地区まで)
先生の紹介
松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!
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