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乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑤「旧口之津鉄道廃線を行く」

〈初めに〉

植木元太郎所感「口之津鉄道全通について」
交通機関の完備は、地方文化の発達に欠く事のできぬ要素である。
国際間でも鉄道や航路の長短は直ちにその文野貧富の占うに足りる。
わが島原半島は、全体を通じて天然の風光に富み、特に雲仙岳は春のツツジ、夏の避暑、秋の紅葉、冬の霧氷など天下の絶景として世に知られている。
加えて安中梅園、有家の鮎帰りの滝、有馬の一揆の戦跡、加津佐の岩戸など、何れも他に類なき名勝であり、天然記念物である。
しかし景勝は富むが交通の便に恵まれず、文化の向上を図る鉄道敷設を先んずと呼びかけたところ万丈一致を得られたり。
古諺に「南風を引かんとせば、先ず北窓を開くべし」という。
島原鉄道の開通は口之津鉄道の設立を推進して本日を迎えた。
最後に一言、口之津鉄道は島原鉄道の姉妹線であり、ともに活躍を願いたい。

1. 口之津鉄道開通まで

その鉄道が創業100年を迎える年に廃線となってしまうとは、植木社長は天界からどんな思いで眺めていらっしゃろうか。
その報告を兼ねて「旧口之津鉄道廃線跡を行く」だ。
1913(大正2)年島原鉄道が全線開通すると、次は湊から口之津へ通じる、いわゆる第2期線である南目鉄道敷設という話が持ち上がった。
植木元太郎はその必要性を説き、郡長の呼びかけで東有家・南有馬・口之津各村長らが協議。
設計書(工事費約38万円)や定款書などを作成、2フィート6インチの軽便鉄道を敷設しようと計画したが、「機は十分熟さず」と立ち消えとなる。
5年後の1918年、不知火(口之津)軽便鉄道創立委員会が郡役所で開かれ、廣瀬郡長は「郡内の待ちの構えさえ定まらぬは勧誘上非常に困る。
この際是非確定を急ぐ必要あり」と説き、3月に発足人会を開き、建設費として70万円とする、株式引き受け申込などを検討して、やっと営業免許の申請となる。
1919年3月口之津鉄道創立総会が開かれ、資本金70万円、社長に植木元太郎を選び、まず湊・堂崎間9.1マイル(14.6キロ)に敷設することとした。

南目線切れる

南目線切れる

2. 路線の決定

島原鉄道木村技術長の測量で、1920年までには用地買収も終わり、路線もほぼ海岸線に沿って計画する。
が、湊・安中間が問題で、第一案は島鉄湊駅から出て、新地の風呂屋付近から港湾を渡って中組の古川邸で県道を横切り、右に折れて白山の一番低い所を縫って蓮池に出てデンプン会社裏手から安中へ抜ける。
第二案は島原駅から始まり、島鉄路線に並行して走り、烏山裏手から分かれて船津人家をかき分けて右に折れ、坂下で県道を横切り八幡神社裏手に出て、白山の西麓をかすめてデンプン会社裏に出て安中へ(後は第一案と同じ)。
結局、採算上から第一案に決定した。
いよいよ工事が始まる。
諫早の古賀組(古賀卯平)が16万円で落札する。
1920年12月1日起工式を挙げ、10か月の予定であったが、最初の1マイルが難工事。
新地の一部を埋め立て、鉄橋を架け、白山の東斜面を削りレールを敷いた。
機関車の時代には汽車はあえぎながらこの坂を登っていたものだ。
安中の扇状地帯を横切り、水無川を渡る。
さらに瀬野の扇状地帯を横断して深江駅へ到着。
当時はこの一帯が雲仙岳の噴火災害に遭うとはだれが予想したろう。

有馬川鉄橋

有馬川鉄橋

 

3. 雲仙普賢岳噴火災害

1世紀にもわたる長い歴史上、島原鉄道は幾多のピンチを乗り越えてきた。
その最大の危機が1990年から始まる雲仙岳噴火災害だ。
火砕流約9400回(焼失家屋約820棟)、土石流32回(損壊家屋約1700棟)被害総額2300億円、死者43名という大惨事となった。
その頃、島原鉄道の輸送人員は263万8000人(平成2年度)が、221万人へと16.2%の減。
その上、土石流対策費や復旧費が2億5000万円を超える。
しかも先の見通しが全くつかない。
「もうあきらめた方が良い」との声も生まれる。
しかし災害を乗り越えて、島原半島の活性化を図り、復興の推進と将来のビジョンを立てるために、「おどんたちン鉄道(マイレール)ば生き返らせよう」との声が盛り上がる。
建設省の復旧計画で①水無川にスーパー砂防ダムを40基、導流堤30基を築造。
②水無川堤防の4mのかさ上げ。
③三角地帯の排土を集め7mかさ上げした住宅地や農地を造成する。
そこへ島原鉄道高架線を造る。
しかし島鉄の負担は約1億円だけ。
県費補助3億円、建設省砂防事業24億円、運輸省災害復旧費1億3000万円を集めて懸案の高架橋など工事が進む。
1997(平成9)年4月安新大橋が竣工し、7年ぶりに全線開通となった。
同時に島鉄自身も増資して、新気動車D2500型10両を購入、被災地の見学にトロッコ列車を導入して、年間4万5000人を集めた。
しかし復興には結びつかず、赤字経営が続く。

有馬川鉄橋

有馬川鉄橋

4. 廃線路を行く

島原外港以南は廃線となり、路線跡がそのまま残る。
2008(平成20)年4月1日以来、列車は通らない。
いつの間にかレールも古鉄として売り飛ばされた。
復興のシンボル「安新大橋」の役割はあっという間に終わってしまった。
ゴーゴーッと普賢岳をバックに走っていた黄色いトロッコ列車はいい被写体であったが、今では忘れられて1枚の写真に留まるのみ。
しかしその大橋は今でも健在だが、眠ったまま。
何か活用方法がないのか。
近くの引き込み線には、ディーゼル機関車が朽ち果てたまま残されている。
深江駅付近は人家をかきわけるように列車は走っていた。
やがて平瀬坂の下を迂回する。
国道251線が改修されて、ここから眺める島鉄は、これまたいい被写体で、荒々しい普賢岳をバックに広い深江平原を爆走してくる黄色い列車は一幅の絵であった。
やがて布津鼻をぐるりと回る。
ここらは雲仙岳の断層面で、50mを越す坂の上から見る普賢岳の溶岩流はこれまたカメラマンの人気を集めていたところ。
布津駅を通り、次は堂崎駅。

口之津・宮崎鼻トンネル

口之津・宮崎鼻トンネル

5. 堂崎まで開通、次ぎは南有馬まで

1920年10月に起工した鉄道も2年かけて第1工区9.1マイル(14.6キロ)は堂崎駅まで完成。
1922年4月6日、落成式が島原町曙座で行われた。
特別列車を仕立てて堂崎駅を出発、島原湊駅に着き、晴れの式典に臨んだ。
難工事が続き、工費75万円とかさむ。
営業は、1番列車が堂崎発6:40~7:25湊着、湊発7:25~8:10堂崎着で、一日6往復していた。
所要時間45分で、料金35銭であった。
この年12月8.9日に北有馬~小浜を中心に南部地方大地震が起こり、死者26人を出す。
その時、普賢岳が爆発するとのうわさが流れ、開通したばかりの堂崎駅へ朝昼区別なく、大八車の音が絶え間なかったという。
鉄道を利用して避難しようと押し掛けたものだ。
この時ほど鉄道の必要性と逞しさを知らされたことはなかったそうだ。

深江平原と廃線跡

深江平原と廃線跡

6. 南有馬まで開通

これより前、口之津村株主一同が決議書を提出、「このままでは堂崎・口之津間はいつのことになるのか、南部5か村有志は大いなる覚悟で全線開通に要する資本金160万円の増資を求める」と、臨時総会開催を求め、100万円を増資した。
資金のめどもつき、1924年6月から第2工区、堂崎~南有馬間の工事が始まった。
今回も路線をどう敷くかが問題。
経費を節約し、いかに犠牲を少なくするかである。
有家蒲河浜の大地主荒木家が路線にかかり、1町もある屋敷を斜めに断ち切ると直線にレールが敷ける。
避けて通すと経費と時間がかかる。
土地買収へ植木常務は何度も足を運び、話し合いを重ねる。
その熱意と信頼に動かされて荒木家ご当主も承諾したとの話が伝わっている。
1926年6月に南有馬まで7マイル(11.2キロ)が開通。
駅は小学校の裏に開かれたから小学生は機関車の動くのが珍しく、授業時間の鐘も忘れて見とれていたそうだ。
有家駅は町の南の水田地帯に開かれたが、駅から中心部の島原街道へ?がる桜町通りを開く。
道の両脇に桜の並木を植え、桜のトンネルができて名所となっていた。
1927年町制を敷き、口之津鉄道の本社も有家駅前に移転する。

 

 

7. 加津佐まで全通

1928年3月1日加津佐まで全線が開通する。
全線22.5マイル(36キロ)が1919年起工し9年かけて完成。
工事費230万円也。
しかし戦時体制により1943年島原鉄道と合併される。
この区間は古雲仙岳の噴火活動によりできたもので、山地が海まで迫り、明治になるまでは島原街道も山手を通っていた。
明治20(1887)年頃、島原半島一周道路ができ、海岸に沿って県道が切り開かれた。
宮崎鼻は切り立った崖で標高もあるし、鉄道を通す余地はなく、宮崎鼻を切りとおさねばならぬ。
そこで口之津大屋~宮崎鼻トンネルが生まれた。
島原町の宮崎組(宮崎徳市)が請負い、ツルハシと一部ダイナマイトを使い1年かけて約300mのトンネルを掘りぬく。
近くの菖蒲田石をブロック大に切り揃え、アーチ型に積み上げて造っている。
技術の高さがしのばれる。
いい仕事を宮崎さんはしたもんだ。
暗やみの中、前方に光が見える。
今もトンネルは生きている。
何か活用法はないものか。
その他、南目一の大河・有馬川へ架橋、口之津港の一部埋め立てなど難工事の連続であった。
後で口之津鉄道社長になる植木又蔵専務は、「口鉄全線の建設に当たっては種々の事情から経済的にも非常に苦境に陥った。
今、回顧するに、どうしてあの困難なる場所を通過し得た驚きの感に打たれる程のものさえある。
しかし、大いなる愉快は大いなる苦痛の後にといわれる如く、かの大苦痛があって初めて今日の快楽があるのを思えば、また自ら慰すべきところがある…」と語っている。
このような先人の苦闘と地域住民の希望と願いを練り込んだ鉄道を、営業不振だと言って切り捨てた人たちを許してはならない。
これが廃線跡を歩きまわった感想である。
終点の加津佐駅に着く。
駅舎もレールも何にもなく、プラットホームの一部が残っているだけ。
近くの松林の中に、菊田一夫の詩碑がある。
「がしんたれ けふは泣きけれ 故郷の 海の蒼さよ」。
打ち寄せる波の音も悲しげ。

加津佐駅跡

加津佐駅跡

7. お待たせ、自転車歩行専用道路

これで終了と思っていたが、うれしいニュースが飛び込んできた。
旧口之津鉄道廃線跡の活用がやっと決まり、今議会で予算化してサイクリングロード・自転車歩行者専用道路として整備していこうとの計画。
南島原市は2019年秋に島鉄南目線跡地の延長32キロを活用するために、自転車歩行者専用道路整備事業を計画、予算化が始まった。
20年度は実施設計に取り組むそうで、その予算は総額2億9千万円余。
待ちに待った口之津鉄道の復活だ。
冒頭の植木社長の所感にあるように、見所一杯。
雲仙岳の紅葉やツツジなど天然の風光に恵まれ、キリシタン史や原城古戦場など歴史の宝庫。
それらを自力で見て回れるし、何よりも来訪者に紹介できることが可能になった。
みんなに何よりも元気が出てきたようだ。
自力で、自転車を使って走り回り、新しい地域の発見だ。
魅力の発信だ。(終)

西有家駅跡

西有家駅跡

次回は「温泉・雲仙鉄道廃線路を行く」

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

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