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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の十一

戦国時代から明治初期までの島原半島にまつわる歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求してみましょう。
皆さんも一緒に考えてみてください。では、問題です。

問題はコチラ

Q1 島原の乱が勃発した時の島原藩主の名は?
Q2 島原藩庁に死体解剖を願い出た、済衆館(島原藩校)教授の名は?
Q3 戦国時代から江戸時代初期にキリスト教信者の子どもに初等教育や宗教教育を行った学校の名は?
Q4 明治2年の版籍奉還で、初代島原藩知事に任命された人物の名は?

A1 松倉重次(勝家) ― 島原の乱 ― 南有馬町 ―

1637(寛永14)年、天下を驚かせた大一揆が島原地方を中心に発生した。
島原の乱である。
島原藩主として松倉重次(勝家)が後を継ぐ頃になると、朱印船貿易も廃止されていくので、貿易に依存する財政を領内の増収策に切り替えざるを得ない。
そこで年貢率を高めた。
またその時期打ち続く天候不順による不作と、過酷な税の取りたてとがあいまって、島原半島は飢餓状態に陥っていた。
「有馬家当郡領地の折柄、耶蘇宗門繁昌し、五穀も自ら豊穣なりしが、松倉氏の領所と成りて二十余年、一日片時も安堵の心なく、…」と、領民の不満は高まっていた。
この年10月15日、キリシタン立ち帰りの回文が出され、25日には代官の取り締まりに反発、島原半島南部の村むらで一揆が始まった。
26日には島原城を攻撃するが失敗し、一揆に参加した農民たちは原城跡へと立てこもる。
特に南部地方は村を上げての参加である。
後で天草勢も参加して、その数2万7000人(3万7000人ともいう)。
こうして日本中を大きく動かす島原の乱へと発展していく。

いずれも原城跡から出土(南島原市教育委員会)

A2  市川泰朴 ― 人体解剖図 ― 島原市城内一丁目 ―

1843(天保14)年、島原藩校・済衆館関係者によって死体解剖が行われ、その解剖図が島原城資料館に展示されている。
「医術の修業のために解剖して実物について研究したい。
門弟たちにも解剖術を伝授して医術の向上を図り、非命の病人を救いたい」と、済衆館教授・市川泰朴を中心に、藩庁に解剖を願い出た。
彼らは指揮・執刀・写生・秤量・磨刀・図書の係と役割を決め、今村の刑場で罪人の死体を貰い受けて解剖した。
門弟にも執刀させ、内蔵を測ったり記録したり、解剖図と照合したりと検証した。
翌年にも解剖してさらに研究を深めた。
この時、蘭学者の賀来佐之が手助けしている。
展示されている解剖図を見ると、頭部から足先まで原寸大で描かれている。
臓器の形や色、重量なども正確で、「丈至肩4尺8寸、頭重10斤、小腸長さ2丈9尺2寸周2寸5分、大腸長5尺6寸5分周5寸5分…」との記述のように、現在のレベルと比べても遜色がない。
改めて島原藩の医学の進歩に驚く。

人体解剖図(島原城資料館)

A3 セミナリヨ ― セミナリヨとコレジヨ ― 北有馬町・加津佐町 ―

キリスト教の学校として、初等教育のセミナリヨと高等課程のコレジヨが有馬の地にあった。
1579(天正7)年、ヴァリニャーノ巡察師が来日して口之津で宣教師会議を開いた。
そこで今後の布教方針が決定され、日本人の聖職者を育成しようということになった。
1580年に有馬のセミナリヨが日野江城下に開校、22人が入学した。
同時に安土にもセミナリヨが開かれた。
府内(大分)にコレジヨが1581(天正9)年に開かれた。
その後、加津佐へと移った。
セミナリヨはキリスト教信者の子どもに初等普通教育と宗教、ラテン語、文学、歴史、美術、音楽などを教育するとともに修道士や伝導士として必要な神学教育を行おうとするものである。
コレジヨは神学を専門課程とする今の大学と同じようなもので、教会の司祭を育成する高等教育機関であった。
これらの学校では、当時のヨーロッパと同様の教育が行われていて、西欧キリスト教社会の最高水準の教育体制と同一であった。
この学校から遣欧少年使節が出たり、弾圧期も最後まで布教活動を続けた西ロマノ宣教師たちが生まれたのである。
しかし迫害期に各地を転々としていたが、1612(慶長17)年頃に長崎で消滅したようである。

(南島原市教育委員会)

A4 松平忠和 ― 廃藩置県 ― 島原市城内一丁目 ―

幕末、島原藩は混乱した。
譜代大名であり、九州の隠れ目付といわれていたから、多分に日和見的な立場にあった。
それで維新への歩みが遅れたといえる。
1869(明治2)年の版籍奉還で、忠和藩主は島原藩知事に任命された。
1871(明治4)年には島原県へと替わり、藩知事は免職となって東京へ去る。
この年11月には長崎県へ編入されて島原藩庁跡に県の出張所が置かれた。
この頃の島原半島は石高約3万8000石、領民12万8000人余、士卒族6500人余。
それに神代鍋島領1100石、3000人余が加わる。
この1年前には各町村の別当・庄屋制度が廃止された。
2年後には新しい行政区が制定された。
島原半島を16の大区に分け、数か村をまとめた。
また農民町人にも名字が許されて、田畑勝手作の許可、土地永代売買の禁止も解かれるなど封建支配から解放され始めた。

松平忠和公(図説島原半島の歴史から)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。


松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の十

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の九
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