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松尾先生の島原の歴史50選「第6回 激動の時代」

1.青い目の人形・リトルメリー

1927(昭和2)年「青い目の人形」が日米友好と平和の使者として島原・南高の小学校へやってきた。
この時期、アメリカでは反日感情が高まっていた。
日本で長年、宣教師や神学校教師として活躍していたギューリック博士は心配する。
子どもたちを通して日米友好の絆を保とうとし、アメリカの子どもたちに「友情の人形を日本のお友達に贈ろう」と呼びかけて1万2000体の青い目の人形が日本へ渡る。
当時の島原町には4体の人形がやってきて、その年5月18日に3つの小学校と幼稚園が合同歓迎会を開いて温かく迎えた。
さらにその後、日本から58体の答礼人形がアメリカへ渡った。

しかし願いもむなしく、日米開戦。
人形も敵国人だと、処分されてしまった。
長崎県下214体も贈られた人形も島原と平戸に2体しか残っていない。
その青い目の人形の一つが島原市立第一小学校に保存されている。
それを見るたびに、あの狂気の時代を良くぞ生き残ったものだと感心する。
心ある教師の働きで、雛人形と共に保存されたこの人形は、今再び平和の大切さを青い瞳で訴えている。
それで現在、島原市の文化財に指定されている。

リトルメ リー

リトルメ リー

2.雲仙国立公園

1934(昭和9)年、雲仙は日本最初の国立公園と指定された。
千数百年前から温泉山満明寺が開かれて以来、霊場となり、山岳宗教の中心となる。
さらに温泉場が古くから知られていたことなど、その歴史と自然が積み重なって国際的な公園へと発展したものである。
明治末年、ベルツ博士が来訪して、温泉(雲仙)は本邦無比の温泉場であるから、県営温泉保養公園として整備することを長崎県知事に助言した。
その結果1911(明治44)年、5万7000坪の官有地をもとに県営公園となった。
その後ゴルフ場やテニスコートなどの設備も整い、自動車道路も完成して多くの人々を集めていく。
明治以来外国人も多く訪れていたが、1923(大正12)年に長崎・シャンハイ間に日華連絡船が就航したら、中国や東南アジアからの来訪者がさらに増えた。
1927(昭和2)年の外国人宿泊者は延べ3万5000人にもなり、全宿泊客の3分の1を占めるほどである。
保養地UNZENの名が世界へ広まっていった。

3.戦争の時代

満州事変・日中戦争・太平洋戦争と15年続いたこの時代、あらゆる面で国民生活を圧迫した。
東京などの都市は空襲されて、多くの国民が死亡し、敗戦間近の長崎市に原子爆弾が投下され、7万余の人命が奪われた。
戦場も銃後(国内)も区別なく多く被害が及ぶのが戦争である。
1945(昭和20)年に終わる。
戦争の傷跡を島原市安中地区の場合で見よう。

戦病死者は221人で、人口の5%にあたり、4軒に1人の割合になる。
たて続けに3人もの息子を失った家もある。
戦没者の3割がビルマ戦線での犠牲者で、ビルマからインドへ進撃するインパール作戦に参戦した人たち。
イギリス・中国両軍に阻まれて激戦となり、戦病死者が多かった。
この戦闘で60人の安中出身兵がなくなった。
中国で27人、フィリピンで28人と、これまた激戦地でなくなった。
その他ニューギニア、沖縄、ソ連――と、多くの人が遠く離れた異国で眠っている。
残された家族はどんな思いであったろうか。
15~17歳の中学生・女学生や女子挺身隊の人も戦死した。
兵器工場などへ動員されていたからで、原爆死した人も多い。

長い、悲惨な戦争を終えて国民は思った。
それと言うのも、結局は国民がしっかりした政治を行う仕組みを持っていなかったからだと痛切に反省した。
この反省に立って、日本は民主主義の社会と政治を求め、平和な民主国家を創ろうと新たな歩みを始めた。
1945年には婦人参政権が認められ、翌年日本国憲法公布、農地改革の実施、教育基本法の制定などと新生日本の創造の歩みが力強く始まった。

4.平和祈念像

1950(昭和25)年秋、長崎市では原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑を造ろうとの話が持ち上がる。
長い戦争は日本中で多くの被害を及ぼし、特に長崎には米軍の原子爆弾投下で死者7万数千人と悲惨な目にあっている。
この犠牲者を弔い、もう二度とこのようなむごい戦争を地上からなくし、恒久平和を願う声が高まっていた。

平和を求める祈念像を造りたいと願っていた北村西望へ話があり、先生は平和を祈り、世界平和を呼びかけるためだと意欲的に取り組む。
彫刻生活50年の総決算へと、全力を打ち込む。
「原爆と平和、犠牲者の冥福の3要素を得意の男性像で広く訴えよう」と、奈良や鎌倉の大仏と肩を並べる大作とする。
像は瞑想する半跏跌座像とし、手の一つは天を指して原爆を示し、また一つは横に伸ばして地上の平和を示すものと構想を練り、9m80cmの本体とする。
1959年から原型の本体石膏像の制作に取り掛かり、それを順次拡大する。
石膏直付法を考えつき、原型制作に1年半、アトリエの問題もあったが、全体を104個(90cm×120cm)に分割、総重量22tの大作が生まれる。
そして1955年長崎原爆祈念日に完成、除幕となる。

造った人はいうまでもなく、郷土が生んだ彫塑界の巨人・北村西望先生で、1958(昭和33)年には文化勲章を授与された。
力強い独自の作品を数多く生んだその業績が評価されたのである。
1972(昭和47)年には島原市名誉市民に選ばれ、同時に島原城の一角に西望記念館が開館した。
そこには西望芸術の代表作約60点が展示され、長い創作活動の軌跡をたどることが出来る。
1987(昭和62)年、102歳で天寿を全うされた。
今改めてその作品を眺めると、力強さの中にもなお若々しく活動し、新たな境地を開こうとする姿勢と戦争という激動の時代を生き抜いて平和への願いを爆発させた、そのエネルギーには圧倒される。

5.島原城天守閣の復元

島原城は1624(寛永1)年頃に造られた。
いうまでもなく松倉重政の築城である。
まもなく400周年となる。
重政公は築城の名手といわれ、今もその名城の遺構が残る。
5層の天守閣を中心に数多くの櫓や城門、城壁を有していた。
その壮麗な城も明治維新後、廃城となり解体されてしまった。

島原の歴史に誇りを抱き地域の活力の源に、また島原出身者の故郷への想いにと島原城復元の動きがずっと以前から続いていた。
東京オリンピック開催を前に、全国的な観光ブームとなった頃、天守閣復元期成同盟が結成された。
その運動が実って1964(昭和39)年4月、天守閣が復元した。
工費の3分の1は島原市民などの寄付によるもので、お城にかける熱い想いと郷土を思う心が込められた城造りであった。

天守閣は地下1階地上5階建で、延べ面積1952㎡、高さ33.5mとほぼ昔に近い。
内部はキリシタン史料館など藩政時代の歴史資料や民族資料の展示館となっている。
その後、巽櫓(西望記念館)や丑寅櫓(民具資料館)、西の櫓などが復元された。

島原城

島原城

6.島原温泉

1967(昭和42)年4月、観光ブームに乗って島原温泉事業がスタートした。
1960(昭和35)年に雲仙・島原間有料道路が開通、また天草5橋が開通してどっと観光客が島原・雲仙へ押寄せた。
1964(昭和39)年には島原城天守閣が復元され、さらに拍車がかかった。

島原市では1960(昭和35)年、元池にボーリングして旅館やホテルの一部に供給していたが、増える観光客に間に合わず給湯量を増やす必要があった。
そこで観音島に新たな泉源を求めて発掘し、この年10月に温泉事業を開始したものである。

これでお山の温泉・雲仙、海の温泉・小浜とこの島原温泉と、島原半島に3つの温泉が並び立ち、全国から観光客を呼び込んだ。
今では温泉が周辺部へも広まり、温泉のネットワークができている。

7.雲仙普賢岳噴火災害

1990(平成2)年秋、普賢岳が噴火を始めた。
翌1991年6月3日には大規模な火砕流が発生して死者43人を出す大惨事となった。
その後もたびたび火砕流が起こり、雨季になると土石流が発生して、島原市安中・千本木両地区や深江町瀬野地区に被害を及ぼした。
島原市だけでその面積が600haと拡大した。
被害総額は2300億円に達した。

1995(平成7)年には噴火活動の終息が宣言されたが、その間に火砕流が9400回、土石流が32回発生した。
島原市の農地の22%が被災地となり、農業所得は43%に低下した。
大量の土石が流入して魚場が荒廃して水産業にも大打撃、10年間で漁家が24%も減少している。
観光客も大幅に減少して島原市の経済は大きく落ち込んだ。

そこで復興策が急がれ、1000億円の災害対策基金をもとにガマダス計画(島原地域再生行動計画)を立て、1997(平成9)年からその復興再生の活動が始まった。
全国でも珍しい火山体験ミュージアム「雲仙岳災害記念館」、災害の跡が生々しい「土石流被災家屋保存公園」、そして島原半島ジオパーク構想が進む。
しかし国全体の経済の落ち込みなどがあって、なかなか立ち上がれずにいる。

雲仙岳災害記念館

雲仙岳災害記念館

 

7.島原半島ジオパーク

島原半島は雲仙岳など火山活動によって造り出されたもの。
私たちの生活の場・豊かな大地を生み出すとともに、ときには寛政の大地変や雲仙普賢岳噴火災害をもたらす。
このような大自然とそこで暮らす人々の共生を体験し、島原半島の美しい景観と豊かな歴史と文化を広く紹介しようと、2008年「島原半島ジオパーク」が日本で最初の世界自然遺産として指定された。

島原半島誕生のドラマが見える「口之津早崎海岸」、巨大な島原半島を横切る「千々石断層」、1万5千の命を飲み込んだ「眉山の大崩壊と大津波」、再び襲った災害「平成噴火災害・平成新山」、特徴ある3つの温泉「雲仙・小浜・島原」、湧水が生み出す豊かな町人文化「島原水屋敷」、雲仙火山の恵みをいっぱい含んだ「ジャガイモ・トマト・アスパラなど」、その他「たいらガネ」「雲仙牛」などグルメ。

島原半島には見どころいっぱい、うまいもので腹いっぱい、豊かな自然と歴史・文化に包まれてのんびりと、島原は本当に「ヨカトコ」です。

 

(次回からは「島原街道」シリーズをお届けします。)

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次の島原歴史探訪」放送中!

松尾先生

過去の記事はこちら。
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

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