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6.202017
松尾先生のぶらっとさらく島原 第8回 北有馬~西有家
〈はじめに〉有馬氏のこと
街道は春日神社前を通る。ここは有馬氏の氏神様で、有馬氏の先祖は藤原純友といわれるから、一族は奈良・春日大社を勧請して分霊した。
また日野江城下を通る。有馬氏の居城で、1215年に藤原経澄がこの地に地頭として入国し、土地の名をとって有馬と称した。
ここから有馬の統治が始まる。しかし実態は、在地の土豪から成長したものであろう。
有馬の地は有馬川流域に広い水田を有し、また有明海の出入口、口之津に近く、海上交通の要地でもある。
水軍の性格を持つ豪族の形成条件には恵まれている。
『今福遺跡調査書』を読むと、古代から中世にかけて長期間の大規模な集落遺跡の存在が明らかで、有明海沿岸地域との交流が盛んだったことがわかる。
北宋から明時代の輸入陶磁器が多数出土し、また鍛冶関係遺物も発掘され、刀剣類の生産がなされた可能性も高い。
刀剣は当時の重要な輸出品であり、陶磁器の輸入と相まってこの地は大陸と交易によって直接結びついていたのではないか。
このように島原半島南部を中心に海運に携わる豪族の存在が推測され、ここを根拠にする有馬氏のかかわりが大きい。
15世紀末に、有馬貴純が島原半島の諸族を支配下に置き、戦国大名として成長していく。
1.日野江城跡
城へ登る。
街道沿いの町中からの50mの崖路が通常の道であったが、このところ発掘調査が進み、東からも行ける。
何とそこには仏石も利用した石段が発見されて驚いた。
日野江城は標高60-70mの丘陵上にある。
当時は足下まで有明海が入り込み、その海岸にそそり立つ舌状台地上に築かれていた。
築城は初代領主経澄が建保年間に築いたといわれているが、この山城の構造や型式から見ても、南北朝時代以降であろう。
その縄張りは、本丸を中心として二の丸・三の丸がそれぞれ相対的に独立した形で配置されていた。
城の北から東にかけて大手川、西部に浦口川が流れている。
東部に大手、西部に搦め手があったろう。
宣教師の訪問記に「有馬氏の見事な館が置かれ、いくつもの部屋と戸には優雅な絵があって、よく整った庭と池、茶室があって、、、、」と書かれ、その豪華さが伺われる。
現在、再び発掘調査中で、次第にその謎の部分が解明されている。
黄金を塗った棟瓦が発見されたり、城門の階段に仏石をはめ込んだり、その石垣の築き方に南蛮の影響があったりと新発見が続いている。
2. 有馬セミナリョ跡
日野江城近くにセミナリョ跡がある。
1579年、来日したヴァリニアーノ巡察師は全国宣教師会議で日本における宣教活動の根本方針を決めた。
その一つが教育機関を設け、全国布教の推進、日本人宣教師養成が急務であると考えた。
そこで1580年セミナリョを有馬と安土、コレジョを府内(大分)に設立した。
このセミナリョには10歳ぐらいからの男子を集めて全寮制で、将来宣教師として必要な教育を実施した。
セミナリョでは、日本語を始めラテン語、日本文学と歴史、音楽と器楽演奏、作法や絵画などの技術を教えた。
コレジョ(高等教育)へ進むものもいた。ここでは日本で一番進んだ教育が行われていたのである。
この学院から育って、ローマ教皇の元へ旅立った人がいる。それが千々石ミゲルたち天正遣欧少年使節である。
無事に大役を果たして1590年に帰国した。
しかし禁教時代には、有馬、加津佐、有家、天草、長崎などと転々として、1614年マカオ、マニラへと移転せざるを得なかった。
コレジョでは専門的な宗教だけでなく、ラテン文学、哲学・倫理学、神学などを教えた。
ここでの教育は専門的な宗教だけでなく、日本人として、またキリスト者としての全人教育が行われ、少年使節を始め、多くの司祭、修道士たちが巣立ち、日本教会のリーダーとなる。
3.願心寺
街道の山手側に寺がある。願心寺で、有馬氏の菩提寺・台雲寺の跡。
有馬義純の代まで隆盛を誇っていたが、天正期のキリスト教全盛期に廃絶した。
その後、島原の乱後に幕府から派遣された鈴木重成が多くの死者の供養と村の立て直し、人々の生活安定を願って建立した。
その後、代官は天草へ渡り、天草住民の生活向上に努めるが、その施策が幕府に受け入れられず、自らの命を絶ったと言う。
有馬の住民もその死を悼んで、供養の塔を立てた。「当寺大檀那異中院殿前郡職鈴木三郎九郎重成卿墓」と碑文が読める。
御堂の裏手には、土地出身の川島ミシがイギリス出身の技術者フィリップの立派な墓を立てた。
その後、自分も死亡しそこへ埋葬されている。優しい島原女の「比翼墓」である。
4.有馬めがね橋群と面無橋
島原半島南部は石橋や石垣築きの屋敷、石仏など石の文化が進んでいる。
町内を流れる有馬川は島原半島一、二を争う大河で、坂下・折木・西正寺の3地区にはいくつもの眼鏡橋が架けられている。
古くは江戸末期のものから、戦後架橋されたものと様々である。
この有馬川水系石橋群で最古の眼鏡橋が、面無橋である。架橋時期ははっきりしないが、江戸時代末か明治になってすぐという。
土地の石をそのまま使い、アーチ型に組み立てている。よくぞ自然石を使って、1世紀半以上保ってきたものだと感心する。
面無地区の人たちの日々の生活の便を考え、自分たちの生活は自分たちで高めようと知恵と労力を出し合ったもの。
石工など関係者の名前など一切記録がない。長さ12m、幅2.9m、高さ5.2mである。
有馬川の上流にあたる坂下川は。ここを通る道が有明海側と千々石湾側とを結ぶ近道で人通りも多かった。
そこで地区の人たちは長年にわたって石橋を架けた。
1903(明治36)年3月に完成させた田中橋は、笹田耕作区長を中心に6人の発起人と8人の世話人を立てて長さ13m、幅3.8m、高さ5.5m、スパン10mにもなる見事な大型橋を造った。
橋に尽力した人たちの名は親柱に刻まれていて、今も通る人々にその名を伝えている。
隣町の金浜橋.が近代的に造り替えられた後の島原半島の眼鏡橋では第一級品である。
なお、この坂下川には5本の眼鏡橋が架かり、他の川の橋も合わせるとこの町には14もの眼鏡橋が残っている。
北有馬町は眼鏡橋の里と呼んでもよいほどだ。
5.龍石海岸琴平崖
街道は西有家町へと出る。北有馬は海岸線が短く、すぐに隣町となる。
街道筋も一番短い。龍石地区を歩いている。龍石神社がある。地区名の起こりとなったものだ。
御神体は大きな石で、岩龍彦命がこの岩から雲に乗り昇天したという。
戸隅の滝に住んで人々をかどわかし、魚類を苦しめていた大ガマを退治した神が岩龍彦命という。
西浦集落から離れて、国道251号線を歩く。国道と旧島鉄線から切り取られた琴平神社岬がある。
高さ15mの崖で取り囲まれたその断面は、島原半島の形成を物語る地層が見られる。
島原半島は火山の噴火によって出来た。
その雲仙火山の基盤を造ったのが第四紀更新世前期(200万~60万年前)に堆積した口之津層群と、それを貫いて噴出した南島原火山溶岩類である。
さらに25万年前に雲仙火山溶岩類が地表を覆い、今の島原半島を形成したそうだ。
この地層には島原半島創世の壮大なドラマが積み重ねられている。
6.キリシタン墓碑
街道から寄り道して須川港へ足を運ぶ。
集落の共同墓地の中に、国の重要文化財「須川キリシタン墓碑」がある。
島原半島はキリシタン王国のようであったから、当時のキリシタン墓碑が130あまり残されている。
その中でも第一級のもの。
碑文にはポルトガル式綴りのローマ字で邦文読みに刻まれ、堀作右衛門ディエゴが1610年10月15日・慶長15年に昇天し埋葬されたことがわかる。
高さ39㎝、横56㎝、長さ121㎝と大きなかまぼこ型墓碑で、正面に墓標を刻み、背面に美しい花十字が彫りこまれている。
重要文化財で今ではガラス張りの小屋に納められているので、写真撮影もままならぬ。
7.そうめん神社
街道は台地下を通り、その上に天満宮が祭られている。
その一角に大神神社が建ち、そうめんの神様として、桜井市三輪山大神明神を分霊して創建したもの。
並んで高橋甚三郎翁像が建つ。手延べそうめん業界の発展に尽くしたと説明板で読む。
ここはそうめんの町だ。神社まで勧請している。
生産出荷額は年間50億円以上といい、業者も200を超えている。県下有数の地場産業である。
手延べそうめんのルーツは小豆島といわれ、島原の乱後移住した人たちが伝えたといわれている。
藩政時代はほとんどの農家が自家用にと作る程度だったが、明治期の経済の自由化とともに商品として生産されていき、時代と共に生産を増加させる。
明治20年代(1887年以降)急速に成長した。
それは須川船といわれる商い船によって、近くは天草から西彼杵半島、遠くは五島や壱岐、対馬まで運ばれて、積極的に売り出されたからである。
生産量の8割はそうめん船によって販売していたという。
大正初年(1912年頃)には50艘もの須川船が活躍し、米や麦、酒、味噌、醤油なども運んで商っていた。
明治26年の調査で、西有家村116戸、東有家村51戸、大三東村29戸でそうめんが生産されて、その額6千キロとなっていた。
1世紀以上も昔から地場産業としての地位を占めていたのだ。
8.高岩山遠望
歩いているいつも左手に高岩山が見える。
標高881mのお山で、頂上は巨石が林立し、そこには高岩権現が鎮座している。
五穀豊穣の神として麓の農家の人から厚い信仰を集めている。
またみそ五郎伝説ゆかりの山である。
「みそ五郎やんは高岩山に腰ば掛け、有明海で毎日顔ば洗いよったげな。
村んもんから好物のミソばもろうて、山ば切り開き、田や畑ば造りよったと、、、、、」
ばあちゃんが語ってくれた民話がそれである。
そのみそ五郎も、今では町に下って来て地域振興のスターとなり、役所の前や橋のたもと、店の玄関先にでーんと座っている。
秋の祭り時には町中を練り歩き、皆に夢を与えている。
西有家は大きな町である。
この高岩山から有明海まで広い田畑が広がり、その中ほどに長野地区がある。
そこには摩崖仏があり、巨石に阿弥陀三尊が彫られている。
谷間に横たわる4~5m大石を一部平らに削り、そこへ身の丈50㎝の阿弥陀仏を3体線彫りしている。
永禄9年と読み取れるから、島原半島にキリスト教が布教したころ造られたものか。
歩いて回るといろんな発見があり、街道さらきのご醍醐味である。
(次回は有家から布津まで)
先生の紹介
松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!
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