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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の四

今回も島原半島にまつわる歴史のクイズを解きながら、「島原の歴史」を探求してみようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q 1 江戸で評判となった、千々石村出身の南画家の名前は?
Q 2 勤王の志士として活躍し、1863年に私塾・神習処を開いた人物とは?
Q 3 1496年、有馬貴純によって現在の南有馬町に造られたお城は?
Q 4 明治時代、ロシアのニコラエフスクに渡り成功を収めた国見町出身の実業家とは?

A1 釧雲泉 ― 南画家・釧雲泉(くしろうんせん) ― 南島原市千々石町

島原領内から出て江戸で高い評判となった南画家がいた。
千々石村(千々石町)出身の釧雲泉である。
雲泉は1759(宝暦9)年生まれ。
幼少時から絵が好きで、温泉山の寺へ出されるが続かず、長崎へ出て中国人から南画と中国語を学ぶ。
やがて大坂や京都を巡り、江戸へと放浪の旅をしながら各地の風景を描いた。
この頃江戸では町人文化が盛んで、雲泉は当時一流の文化人と交際して益々その名を高めていった。
田能村竹田、頼山陽、亀田鵬斉などそうそうたる画家や詩人から好まれた。
さらに越後(新潟県)へ行き、良寛和尚のいた出雲崎に滞在した。
そこで53歳の生涯を終わった。
今、良寛記念館には釧雲泉の像が建てられている。
多くの作品が残されているが、今も高い評価を得ている。

釧雲泉像(雲仙市役所千々石庁舎)

釧雲泉像(雲仙市役所千々石庁舎)

 

 

A2  丸山作楽 ― 神習処(かみならいどころ ) 島原市上新丁

勤皇の志士として活躍した丸山作楽は、1863(文久3)年に私塾・神習処を開いた。
そして武士だけでなく町人や農民にも皇国の道を説いた。
譜代大名である島原松平家は多分に佐幕的であり、西国諸藩が討幕の動きを始めていた中で、その動きは鈍かった。
また藩主の夭折が続き、その指導性が弱体化していた。
江戸詰めの貧しい武士の家に生まれた16歳の作楽は、1854(嘉永7)年同僚の梅村真守たちと尊王に献身することを誓い合う。
さらに同志が増えて、保母健、尾崎涛五郎、伊藤荒益らが加わり、各地で活躍する。
保母と尾崎は大和天誅組に加わって1863(文久3)年捕縛され、やがて獄死。
梅村と伊藤は水戸天狗党に参加して1864(元治1)年に憤死した。
1865(慶応1)年には、城内で中老・松坂丈左衛門が中村瑞平ら若い藩士4人に暗殺される出来事も起こった。
作楽は、1863年島原永住を命じられて神習処を開き、まだ果たせぬ夢を語り、時を待つ。
しかし過激な言動によって1866(慶応2)年には投獄されて、獄舎の中で明治維新を迎えざるを得なかった。
維新後は明治新政府の高官となって活躍し、貴族院議員にも選ばれた。

神習処跡(島原市上新丁)

神習処跡(島原市上新丁)

 

A3 原城― 日野江城と原城 ― 南島原市北有馬町・南有馬町

島原半島一円に勢力を伸ばしていた有馬氏が築いた城が、日野江城と原城である。
有馬連澄は1346(貞和2)年に日野江城を築いた。
この頃は南北朝内乱時代で、中央では天皇側と武士側に分かれて争っていた。
地方も同様で、時勢の動きを見て離合集散を繰り返し、如何に有利な立場で領地を拡大できそうかと行動していた。
島原半島では、懐良親王が九州に入って天皇側勢力が伸び、武士側勢力と争っていて混乱を深めていた。
この時期に千々石城や山田城などが築かれている。
原城は1496(明応5)年、有馬貴純によって造られた。
東西250m、南北700mあって、本丸と北に二の丸と三の丸、南に天草丸などがあった。
貴純はこの頃、島原半島をほぼ統一して、松浦郡を押え、さらに藤津郡や杵島郡(いずれも佐賀県)へも勢力を広げていた。
そして20万石の戦国大名へと成長した。
この原城は有明海に面して、周りは高いがけで囲まれた天然の要害であった。
以前からあった日野江城との間には長い回廊が築かれて、とともに有馬氏の拠点として重要な意味を持った。

A4 島田元太郎― 島田商会 ― 国見町土黒地区

土黒村(国見町)出身の島田元太郎は15歳でロシアへ渡り、1897(明治29)年ニコラエフスクで島田商会を開業。
その後事業を拡大させて、年商2700万ルーブル(現在の1兆円余)をあげていた。
島田札と呼ばれた同商会の商品券はルーブル札より信用が高かった。
藩政時代は宗門改めが厳しかったから、離村は難しかった。
明治の御一新で自由になると、仕事を求めて海外へと出る人が多くなった。
その中の一人が島田元太郎で、大成功である。
ニコラエフスクはアムール川河口にあって、沿海州やサハリン(樺太)との物流の中心地である。
この地に目をつけて、雑貨販売、鉄工業・造船、金鉱開発、銀行・金融業など今日の総合商社にあたるような経営をしていた。
ロシアの産業や日本・ロシア貿易に大きな役割を果たしていた。
しかしロシア革命が起こり、パルチザンのために1920(大正9)年当地の日本人が虐殺される出来事(尼港事件)が発生、島田商会も壊滅的な打撃を受けた。
この時、島原半島出身者が65人も死亡したから、関係が深かった地元では大問題となった。
翌年再開するが、ソビエト政権成立で撤収せざるを得なくなる。
すべてをなくした彼は、戦後の混乱時期にピョンヤンで、その波乱に富んだ一生を終わる。
【島原新聞「大正9年記事」】【森川正七「北海の男」】

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
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