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4.202021
OPINION「大火砕流惨事から30年 北上木場町「定点」周辺の整備 島原半島ジオパーク事務局員 杉本 伸一」
定点の整備計画
雲仙普賢岳噴火に伴う1991年6月3日の大火砕流により、消防団員、警察官、地元住民、マスコミ関係者、火山学者など43人の尊い命が失われてから30年になります。
2003年11月、災害時に消防団員の詰め所として使用されていた「北上木場農業研修所跡」が整備され、火砕流で被災した消防自動車とパトカーなどが現地に保存されました。
しかし、報道関係者が撮影拠点とした「定点」の周辺は、「報道関係者の行動により消防団員などが巻き込まれた」との住民感情があったことから長く放置され、三角錐の白い木製の標柱が目印としてあるだけでした。
そこで大火砕流から30年の節目を機に、安中地区町内会連絡協議会を中心に、噴火災害の教訓を未来に伝え犠牲者を追悼するため、定点周辺に埋もれ朽ちている取材車両や報道関係者が利用したタクシーを掘り出し、展示する整備計画がまとめられまし雲仙普賢岳噴火に伴う1991年6月3日の大火砕流により、消防団員、警察官、地元住民、マスコミ関係者、火山学者など43人の尊い命が失われてから30年になります。
2003年11月、災害時に消防団員の詰め所として使用されていた「北上木場農業研修所跡」が整備され、火砕流で被災した消防自動車とパトカーなどが現地に保存されました。
しかし、報道関係者が撮影拠点とした「定点」の周辺は、「報道関係者の行動により消防団員などが巻き込まれた」との住民感情があったことから長く放置され、三角錐の白い木製の標柱が目印としてあるだけでした。
そこで大火砕流から30年の節目を機に、安中地区町内会連絡協議会を中心に、噴火災害の教訓を未来に伝え犠牲者を追悼するため、定点周辺に埋もれ朽ちている取材車両や報道関係者が利用したタクシーを掘り出し、展示する整備計画がまとめられまし
整備事業で新たな発見
2021年2月8日、大火砕流に巻き込まれた毎日新聞の取材車両1台と小嵐・丸善のタクシー2台が掘り出されました。
定点から約20mの所に野晒しのまま残されていた取材車両は、重機やスコップを使って土砂が取り除かれ、車体のトランク部分から、望遠レンズなどが見つかりました。
また、タクシー2台は定点から約70mの畑の中にあり、車体の大部分は降り積もった火山灰に埋もれていました。
これまでは定点の位置から車体が宙に浮いた状態で70mも飛ばされたと考えられていましたが、そのような場合地面が大きくへこむなど落下痕が見られるはずです。
今回の作業では、そのような痕跡は見られませんでした。
また、掘り起こされた車体は、巻き込むように電線が絡まっていたことから、車体は転がりながら倒れた電柱の電線を巻き込んで運ばれたと考えられます。
高温なだけでなく、火砕流の破壊力にも驚かされます。
防災は大地を知ることから
私は島原半島ジオパークの活動に関わり、火山を核とした島原半島の自然と向き合う日々を過ごしました。
そして、雲仙普賢岳噴火災害に全国から頂いた支援への恩返しに、岩手県宮古市に6年間居住し、三陸ジオパークの活動にも携わりました。
そこで感じたことは、津波の起きた海や火砕流のあった山を岩手や島原の人々は恨んでいないことでした。
温泉や豊かな海産物など、自然は私たちに恵みを与えてくれます。
問題は、自然とどう付き合うかです。
そのためには自分の住んでいる大地を知ることです。
ジオパーク活動の意義はそこにあります。
災害遺構は整備することが目的ではありません。
いかに活用するかです。
現場で人が思いを伝えて、初めて災害の教訓は継承されて行きます。
私たちは記憶の風化を防ぐため、保存整備された定点周辺を活用し、雲仙普賢岳の災害教訓を未来に活かすことを誓います。
杉本 伸一(すぎもと・しんいち)
プロフィール
1950年島原市生まれ。
安中公民館で島原市職員として雲仙普賢岳の噴火災害対応に当たる。
2007年火山都市国際会議島原大会、2012年第5回ジオパーク国際ユネスコ会議に事務局長として携わる。
2014年4月~2020年3月岩手県立大学客員教授。
2014年5月から2020年4月まで岩手県宮古市に居住し三陸ジオパークコーディネーターとして被災地支援。
2020年6月から島原半島ジオパーク協議会事務局員。