記事

島原半島観世音三十三霊場巡り 島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」

〈初めに〉

観自在菩薩般若・・・大きな声で般若心経を唱え、手を合わせていると、なんだか気持ちもすっきりする。
このところ霊場巡りにはまっている。
四国八十八霊場巡りを皮切りに、地元はもちろん、近隣の霊場を巡っている。
実は、地元にも「島原半島観世音三十三霊場」があって、遠くまで行かなくても、近くには霊験あらたかな観音様がいらっしゃるのだ。
昔の人は、よく願をかけて霊場を巡っていた。
それで神社や寺、観音堂観自在菩薩般若・・・大きな声で般若心経を唱え、手を合わせていると、なんだか気持ちもすっきりする。
このところ霊場巡りにはまっている。
四国八十八霊場巡りを皮切りに、地元はもちろん、近隣の霊場を巡っている。
実は、地元にも「島原半島観世音三十三霊場」があって、遠くまで行かなくても、近くには霊験あらたかな観音様がいらっしゃるのだ。
昔の人は、よく願をかけて霊場を巡っていた。
それで神社や寺、観音堂にはその結願を喜んで碑が建てられたり、記念の絵や写真などが奉納されている。
しかしこのところ忘れられているのか、さびしい思いがする。
昨今、新型コロナ騒動で奇妙な世の中になっているが、その対応策として涼しくなるのを待って島原半島観世音三十三霊場巡りに出かける事にした。
一番霊場は江東寺観音で、三十三番霊場が杉谷江里神社観音である。
その間、二番、三番・・・と南目周りに続く。
それを六回に分けて巡礼してみようと、計画を立てた。
よろしかったら皆さんも、この情報誌を手に島原半島の霊場を巡ってみませんか。

一番霊場「江東寺観音」(島原市中堀町)

江東寺はいわずと知れた島原で一番大きな寺である。
また歴史も古く名刹である。
松倉重政が島原城築城時に、その菩提寺として有馬から移されたもの。
開山当時は島原村はずれの今村にあったが、島原大変の時に埋没し、現在地に再建された。
この地は島原大変以前には海の中で、そこへ山が流れ下って埋め立て、小高い丘も生まれた。
この丘を豊後山というのは、そこへ当山開基の松倉豊後守重政の墓を建てたから。
また歴代住職の墓石群(今では涅槃像が建つ)、それらを取り囲むように城下町別当、中村・隈部・姉川3家の墓所が連なる。
また広い境内には旧家の墓が建ち並んでいる。
このように由緒ある寺だから、島原半島三十三霊場の一番霊場になったのだろう。
山門をくぐるとすぐ右手に大きな観音堂がある。
そこへ集まるのが今回の巡礼団20数人。
いつもの歩き仲間とその知り合いの方たち。
広い観音堂だが全員は入れなくて外でお参りする人も多い。
仏説 般若心経・・・寺田ご住職様がわざわざ出迎えてくださって、般若心経まで唱導してくださる。
それに合わせて読経するが、何せ信心が薄いもので、ご住職に合わせるのが精一杯。
「ありがとうございます。
お言葉だけでなく、お経まで上げていただいて」霊場巡りの出発にふさわしい一番霊場での出来事である。
参拝をすませて御堂内を眺めていると、古い写真が飾ってあった。
昭和初期の島原半島三十三霊場巡礼団の結願記念写真である。
このように昔はよく巡る人が多かったようだが、このところは願をかけて回る人はどのくらいあろうかとのこと。
私どもも是非結願を迎えて、このように奉納させていただこう。

一番霊場「江東寺観音」(島原市中堀町)

二番霊場「晴雲寺観音」(島原市柏野町)

二番霊場は市街地をぐっと北に進んだ晴雲寺にある。
発願の地を江東寺にしたから、北から旧市街のお寺を回ることになる。
それでこの間2キロ、熱風の中を歩く。
最短コースをたどり、新しくできたばかりの萩原・柿の木間を歩く。
そしたら太陽光をまともに受けて、霊場巡礼の苦行が始まった。
山門を入るとすぐ左手に、これまた大きな観音堂がある。
中央に白衣音像が祭られ、周りに西国三十三霊場の観音像が整然と並ぶ。
灯明とお線香を供え、お賽銭を上げ、般若心経を唱えてお祈りする。
この寺も古く、松倉重政の寄進により、対岸の熊本から移りこの地に開山したもの。
旧市街の寺が、島原大変時に倒壊流失した中で唯一残った寺である。
古い時代の墓碑や山門の扁額などにその歴史が偲ばれる。
扁額は明の高僧・即非の筆。
黄檗の三筆と呼ばれた人の書だ。
もちろん市の文化財に指定されている。
あと一つ市の文化財があった。
キリシタン地蔵で、高さ30センチばかりの屋根型石の中に隠し十字入り地蔵が彫り込まれている。

二番霊場「晴雲寺観音」(島原市柏野町)

三番霊場「快光院観音」(島原市萩原一丁目)

町中を南下する。
それで少しは熱風も和らぐ。
快光院へ着いた。
そしたら観音堂に鍵がかかったまま。
仕方がないと、外から拝ませてもらう。
みんなで唱える般若心経も心なしか小さいようだ。
中に入れなかったのでよく見えなかったが、聖観世音様が祭られている。
またあとで書くこともあろうが、妙な社会となったものだ。
賽銭泥棒が横行しているとかで、その防衛策にと施錠していらっしゃるのか。
本来、寺や神社は困った人や悩めるものの救済の場である。
それで来るものは拒まずと、誰にでも戸が開かれていた。
それがこうではね。
残念な世の中になってしまった。
この寺の本堂は、新しく建て変わっていた。
以前の御堂は、今から百年前に島原鉄道創立総会が開かれたところ。
明治の昔には多くの人を集めるところは寺ぐらいしかなかった。
それでしばしば大集会所として、御堂は活用されてきたのである。
島原にも鉄道を敷こうと、熱気あふれるその光景が目に浮かぶ。
快光院は、島原の乱後入国した高力摂津守忠房の手によって開かれた。
祖父の河内守清長の菩提を弔うために開き、清長の快光院殿号よりその名としたもの。
御堂前の大銀杏の下には、高力氏の墓碑が並ぶ。
その隣には、志賀甚三郎の墓石もある。
甚三郎は2代隆長の家老であったが、殿の乱行を諫めたために手打ちとなった人。
結局高力氏は二代で滅ぶ。
寺はその土地の歴史の宝庫である。
いろんな文化財や伝承が伝わるので、その地、その寺、その場で紹介しよう。

四番霊場「崇台寺観音」(島原市萩原一丁目)

四番霊場「崇台寺観音」(島原市萩原一丁目)快光院のすぐ隣が四番霊場。
本堂のすぐ左手に観音堂は立っている。
御本尊は白衣観世音で、別名子安観音。
それで子授けや安産、授乳の祈願で参拝する人も多い。
今日集まりのご婦人にはそんな願いをなされる方はいらっしゃらないようだが、女性の皆さんの読経が一段と大きくなった。
ご家族のためにと念を入れられたのか。
御堂内には、キューピーさんなど人形が飾られていて、結願お礼の上げものが多い。
霊験あらたかなものであろう。
目を天上に注ぐと、本堂の棟瓦に真田の六連銭が金光りしている。
開基の良憶和尚が信州真田家の出であるのでその家紋が輝いているのだ。
この寺も快光院同様に、高力氏に関わる。
忠房公に従って島原に来て、この地に寄進を受けて開山した。
それで島原の乱直後、初めて「戦死英霊怨親平等」の大供養を執行したところでもある。

五番霊場「回向堂観音」(島原市高島一丁目)

繁華街をぞろぞろと歩く。
20名もの集団に、「なんごとかない」。
「観音様巡りたない」と、返事して進む。
この辺一帯を船倉といい、その昔、島原藩の軍船や御座船の停泊地であった。
それで船倉武士という水主(水夫)が居住していた。
そこへ寛政4年4月1日夜、眉山が崩落して大津波が襲い、全滅する。
二百数十人が犠牲となった。
翌年藩はその供養のために、回向堂を建て、本光寺の多福軒に永代供養を命じた。
その時に植えた大ソテツが側にある。
幅2間、奥行き2間の典型的な観音堂造りで、棟瓦には島原藩紋重扇が刻まれている。
ちょっと前までは、200年余の風雪にさらされてきたので雨漏りがひどく、ビニールシートで覆われて痛々しい姿であったが、町内の人たちの御尽力でりっぱな観音堂が復活した。
有難う!御堂内には聖観音像が祭られ、「溺死者諸精霊」の位牌が安置。
275人の法名を書いた掛け軸も掲げられている。
我が祈願と同様に流死者の供養をもと、念仏にも熱が入る。

六番霊場「今村観音」(島原市崩山町)

市街地を離れて、いよいよ南目へ進む。
歩いている道は昔の島原街道。
今村、今は崩山というが、眉山が崩れてここまで山となったのでその名がついた。
島原村のはずれで、その昔から観音堂が建てられていた。
大変後にそれが復旧されて、今も六番霊場となっている。
その歴史を示すように、古い形の一石六地蔵や仏石が通りに面して並んでいる。
観音堂入り口に鰐口(金口・梵音具)が下がっている。
「奉寄進肥前国高来郡三会村寛文10戌7月吉日大津伝右衛門」と刻んである。
松平忠房が島原に入国したばかりの時に三会の大津氏が寄進したもの。
それが島原大変時に御堂とともに流されて、白土湖付近の水田から見つかり、また元の御堂に収まったものだ。
今では市の文化財に指定されている。
その由緒ある鰐口を勢いよく鳴らして入る。
立派な施薬観音像が祭られている。
いつものように般若心経をあげてお参りするが、賽銭箱がない。
これまた盗難防止のためなのか。
観音様のお膝元に上げさせてもらう。

七番霊場「桜井寺観音」(島原市崩山町)

ものの何分も歩かないところに七番霊場がある。
桜井寺だ。
この寺は眉山崩壊の被害をもろに受けた。
一面土石に覆われたが見事に復旧して、元の場所に再建された。
それで島原大変を物語るものも多い。
山門右手にその観音堂はある。
ちょっと小振りだが、新しい供花や供物が上げられていて、すがすがしい中にお参りさせていただく。
聖観音とお大師さんを取り囲んで西国霊場観音が祭られている。
いつものように境内見学だ。
山門左手に新しく地蔵堂が出来ていた。
中には以前からあった島原大変供養塔と地蔵尊像が祭られている。
200年もたつと雨風による痛みが激しいからと、サヤ堂としてこの地蔵堂を建てられたもの。
同時に説明板も造られていて、その由来がよくわかり、ありがたい。
大変3回忌に建てられた供養塔と並んで地蔵大菩薩像が立つ。
棹石には2童子と3童女の戒名が刻まれている。
施主は不明だが、大地変でわが子を亡くした親が、「大乗経」を書写してその冥福を祈り建立したものだ。
不幸な出来事により奪われた多くの子どもたちの霊を地蔵菩薩に託して供養したのだな。
いつの時代も子を思う親心には変りがないのだ。
再び合掌。
ここで今回の島原市内霊場巡りはおしまい。
昼過ぎには終わる。
次回は深江町から有家町を巡礼すると約束してみんなと別れる。
今日は特別いい日を過ごせたと感謝して家へ向かう。
延長18.6㎞の路線であったが、実現できなかった。
次回は 島原半島観世音三十三霊場巡り②
「八番霊場~十二番霊場(南島原市深江町~有家町原尾名) 」

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑥「口之津港ターミナルビル(外観)」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~⑤「旧口之津鉄道廃線を行く」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~④「島原駅中心」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第2回おとうの見た合戦
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第1回くれ石原をかけめぐる
松尾先生の島原街道アゲイン 最終回 「深江~安中」
松尾先生の島原街道アゲイン「有家~布津」
松尾先生の島原街道アゲイン「北有馬~西有家」
松尾先生の島原街道アゲイン「口之津~南有馬」
松尾先生の島原街道アゲイン「南串山~加津佐」
松尾先生の島原街道アゲイン「千々石~小浜」
松尾先生の島原街道アゲイン「吾妻~愛野」
松尾先生の島原街道アゲイン「国見~瑞穂」
松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

関連記事

イチオシ加盟店

  1. 山之内
  2. 有限会社サトーコーポレーション(環境エコ事業部)

加盟店一覧

最新号

こちらもどうぞ!

いいね!もおねがいします

島原街ネタ研究所

ページ上部へ戻る