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乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~④「島原駅中心」

〈初めに〉

昭和初年の「島原における民謡」に…すでに島原のコマ―シャルソングがあった。
♪島原名所というならば三十番神さんに愛宕山猛島大明神東照宮大権現弁天さんに七面さんお城の天守湊の恵比寿さんに向島船津の新波止眼鏡橋豊後屋の龍香丹笹屋の寛太そば新町清水に三好屋銘酒大手の三日市の小麦饅頭は一つ六文安いもんたないお土産買いなされ♪

1.島原城

島原は、今も昔も城で持つ。
元和年間(400年以前)に藩主松倉重政が森岳という小高い丘を中心に島原城を築き、島原歴代藩主の居城となる。
城は南北660間、東西190間。
周囲2060間の塀を巡らし、南から本丸・二の丸・三の丸を配置。
その南部に島原城下町が開かれ、そして栄えていく。
明治維新で廃城になり、楼閣を壊し、樹木を伐り、一帯は払下げられて耕地となるが、本丸と二の丸、三の丸、取り巻く石垣と壕はその昔の姿を残している。
1964(昭和39)年に復元した天守に登れば、島原市街を一望できてその眺望は絶景なり、絶景なり。
2016(平成28)年に県文化財(史跡)に指定されたが、その価値を高く評価している。

*幕府が新規の築城を原則禁止していた中で、全国でも数少ない新設の城郭である。
*その内部構造でも極めて特徴があり、大手口から本丸に至るまで複雑な城道や30基を越える外曲輪の櫓群など、防御を意識した堅固な遺構が残っている。
* 本丸の入り口などには桃山時代からの伝統的な様式の巨石石垣が見られる一方、各曲輪の高石垣には江戸初期の先進的技法が見られる。
築城技術の転換期の様子が良く残る。
*県内で機能した5城中で敷地面積や櫓、 門数、 建築、 石垣など最大の規模。

天下の名城である。

2. 霊丘公園

200年も昔は、この辺一帯は海中に突き出した砂嘴(砂州)と松島・中の島などで、島原湾を造り、よい港であった。
1792(寛政4)年大地変で現在のように陸続きになり、市街地のど真ん中にある霊丘公園として市民のオアシスとなっている。
中央部に島原藩主高力忠房が徳川家康を祭る東照権現の社殿を建てたので一帯を権現山ともいった。
1883(明治16)年社殿を改修し、東照宮の他にも松平忠定以下6代の藩祖を祭り、宗像神社などを合祀して霊丘(タマオカ)神社と改めた。
1934(昭和9)年に国から払い下げを受けて、中央低地を切り開いて運動場とし、まわりの丘にツツジなどを植えるなど、公園化を推し進めていった。
江戸時代の優れた南画家・釧雲泉の記念碑、島原の志士として活躍した丸山作楽の頌徳碑、俳人高浜虚子の句碑、公園入口には島原鉄道などの創始者である植木元太郎翁の像が立ち、島鉄最後の機関車C1201号が展示されている。
近年北側には温水プールや体育館弓道場も造られた。
忘れるところだったが、1913(大正2)年この公園で島原鉄道の開通式典が開かれ、演舞や仮装行列などが行われ、今までないような賑わいであったそうだ。

3. 白土湖・音無川

この湖も寛政の大地変の置き土産。
眉山の大崩壊で、ものすごい土石が押しよせ、小山がこの一帯に出来た。
上の原各地の湧水がせき止められて、またたく間に大池ができた。
善法寺前から旧江東寺まで、長さ10町(1.8キロ)、幅3~4丁(250~350m)にわたり、また市内各地から水がわき出て。
災害復旧の障害となった。
藩庁は高札を出して、水抜き工事の請負を募った。
有家町村の3人が請負い10月から工事を始める。
白土の大池から海まで長さ560間(1070m)、幅3間(6m)、深さ3~6尺(1~3m)の排水路を掘る。
計画では大池を5尺水抜きするはずだったが、了簡違いでようやく3尺引く。
人夫2500人を使い、翌年2月末までかかる。
その費用は銀札6貫目余(105両)であった。
緊急工事であったから、旧海岸線をぬい山地を避けたので勾配が少ない。
水音はほとんどしない。
それでいつしか音無川と呼んだそう。
200年余り、今も毎秒1トン以上もわき出て、実に30万人をも養うほどの水量である。

4. 三十番神

三十番とは1か月(30日)、毎日交代で国と人々を守る30体の法華宗守護神のこと。
朔日の熱田大明神から晦日の吉備大明神まで30体の着色木像が整然と安置されている。
全国無比の番神様と人々の信仰が厚い。
その始まりは1736(元文1)年のこと、島原3代藩主松平忠俔公が大病にかかり危篤状態となったが、回復した。
心配して集まっている家臣に、夢のことを語る。
立派な御殿があり、衣冠を正した30人が並んでいる。
階段を登ろうとすると、お前が来るところではない、町人市兵衛のような篤行者が来るところだと叱り飛ばされた。
そこで市兵衛を探すと、法華宗の熱心な信者で、人々の信頼の厚い讃岐屋市兵衛を見つけ出した。
市兵衛は祖父の頃からの遺言を話し、三十番神献納のことを語る。
市兵衛を藩士待遇にして京都に登らせ、30人の刀匠に1体ずつ番神を刻ませた。
同時に7万巻の法華経を印刷させ、3年後に完成し、護国寺に納められた。
以来、天明の大火や寛政の大地変でも難を免れて、全国無比の番神様と人々の信仰を集める。
しかし明治の神仏分離令で寺には置けず、島原城天守閣に移される。
城の解体時に商人に払い下げられ、出開帳になって、各地で見世物にされた。
寺では檀家と相談して買い戻し、1882(明治15)年にやっと元の場所に安置された。
ここ護国寺は1651(慶安4)年高力忠房により開かれ、熊本から日遥上人を迎えた。

5. 九十九島・秩父が浦公園

九十九島といってもそれだけ島があるわけでなく、島が多いことを意味する。
伊能忠敬が文化年間に測量したときには59島が記録されている。
ここも島原大変時の置き土産。
1792(寛政4)年に眉山の崩壊で4億4千万立方mの土石が有明海へ流れ込んだ。
海岸線が約800mも押し広げられて、77万平方mの土地が生まれた。
陸には多くの小山や湖沼、海には多くの島々と入江ができた。
こうして新開地ができ人々は集まり、開発されていく。
湊の規模も拡張して、湊がさらに賑わう。
「ここは珍しき良き湊で、7~80石、千石くらいの大船が川内に来て着け、湊より直ちに帆を揚げて船を走らせるなり」と、旅人は書いている。
明治になると汽船の時代となり、沿岸航路が発達する。
そして物流が盛んとなる。
1896(明治29)年には回船123隻、漁船378隻あって、和船6509隻。
翌年半期の出入船は7425隻(汽船569、西洋帆船347、和船6509)で年間に直すと1万5千隻になろう。
湊には帆柱が林立していた。
高度成長経済の時代、観光客が増加し船の大型化で港が南部に拡張され、島原外港が整備される。
そして九州観光ルート(長崎・雲仙島原・熊本阿蘇・別府)結集点として島原は栄えていく。
海の公園・秩父が浦海岸の開発が計画されるが、今ではすっかり忘れられてしまった。

6. 猛島神社

祭神は五十猛尊(イソタケルノミコト)と大屋津姫命(オオヤツヒメノミコ)、沿う津姫命(マガツヒメノミコ)。
元は松倉重政が島原城築城時に高島(鷹島)に鷹島大権現を祭り島原の守護神としたことによる。
松平忠房が入封し、1671(寛文11)年に現在地に移し領内7万石の総社「鷹島大明神」と改めた。
以来400年、城下町の氏神様として人々の信仰を集めている。
1872(明治5)年猛島神社と名を改めた。
寛政の大津波で社殿が流され、1815(文化12)年に復旧、その後明治・大正と大修復して現在に至る。
<三好屋新田>神社南方の干拓地。
年貢米に頼る藩財政を高めるには新しく田を切り開いて収入を増やすことが大切。
それは農民にとっても同じである。
松平氏の入封後、1706(宝永3)年の検地では本田6100町9反余、新切1015町5反余の合計7116町4反余であったが、1867(慶応3)年の調査では合計8749町7反余と増えている。
つまり160年間に2割増加である。
各地で新田開発が行われたが、ここ三好屋新田は最大である。
豪商三好屋は天保時代の全国的な飢饉時に、ただ米や金銭を与えては依頼心が増すだけで、貯蓄心を育てる施策を唱える。
かねて願い出ていた大手浜の干拓を始める。
賃金も2割増しとし、のべ数千人を使い800mの堤防を築き、8町の新田を生み出す。

7. 本光寺

もとは丸山と呼ばれ、戦国時代には丸尾城があったという。
沖田畷の合戦時には島津の猿亘信光軍が陣を構え、佐賀の鍋島直茂軍を迎え撃ったところ。
その供養のために高力忠房が1638(寛永15)年禅林寺を建立した。
さらに松平忠房が藩主になると浄林寺と変え、松平家の菩提寺とした。
ここの山門はその時代のもので、島原最古といわれる。
明治維新で浄林寺は廃止され、柏野の本光寺を移した。
御本尊は釈迦如来座像で、木彫りの黒漆塗り、約2m。
室町時代の作で代々伝わる守護仏で、秘仏としていつも幕で覆われている。
脇侍仏に如意輪観音菩薩像がある。
織田信長の比叡山焼打ち時に明智光秀軍が火中から救い出し、福知山で祭られていたものを松平氏の島原入封時にもたらされた。
ここの墓所には島原藩初代忠房の生母・福昌院、2代藩主忠雄、10代藩主忠精夫人真鏡院や側室、早世した子の墓、23基が整然と並び、藩政時代の墓地形式が良く残っている。
近くには、実山和尚が発願した16羅漢像もある。
領内17人の石工の素晴らしい作である。

 

(次回は「旧口之津鉄道廃線を行く」)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

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乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~③「多比良~三会」
乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~②「愛野~神代」

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