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松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん

 

〈はじめに〉

?おおしけ
ビュウ?、ビュウ?ビュウ、ビュー ザ、ザ?ツ、ザ、ザザーツ。激しい北風で、千石船が木の葉のようにもまれています。
ここは網代(静岡県熱海市)の沖です。船の名は永住丸といい、兵庫(神戸市)の港から宮古浦(岩手県宮古市)へ荷物を運ぶところです。
ド、ドーッ、船はまた大波を横っぱらに受けました。もうダメだといっているように、悲鳴をあげています。
「オーイ、助けてクレーッ。」太吉たちの太い声も、風にふき流されそうです。目の前に港があるのに、どうしても入港できません。
1842(天保12)年のことです。秋の日ぐれは早く、夜になると、ますます風は荒れ狂います。
ドーン、ド、ドーン 大波の中で、今にも船は真っ二つにされて、いつ大海原に放り出されるのかと、生きた心地がしません。
ただただ、神様におすがりして、祈るだけです。

千石船

1、 漂流

「猛島大明神様! なにとぞお助け下さいませーッ! お願い申し上げます」
必死に祈っている太吉は島原出身で、片町の生まれです。すぐ近くにある猛島神社は氏神様で、小さいころからよくお参りしていました。
きっと願いをかなえて、助けて下さることでしょう。その間も船は東へ東へと吹き流されて、とう
とう3日後には、まったく陸地も島も見なくなってしまいました。おまけに、まだ
おおしけは続いています。

「みなの衆、集まってくれゃー」
船頭の善助が、乗組員全員を集めました。

「ごらんの大風だ、もうどうしようもない。これからどうしたらいいか、よい考えを出してくれゃ」
おたがいに一番よいと思う方法を紙に書き、それをオミクジのように引いて、それに従うようにきめました。
船頭はオミクジを読み上げました。

<帆柱を切り倒すべし> これを神様のお告げと信じて、さっそく実行です。

まず積荷の塩5千俵を投げすてて、船を軽くしました。さらにイカリを前後に2本つるし、大波から船を守る工夫をしました。
神のお助けでか、太吉たちの必死の働きでか、船はやっと危険を乗り切り、大風も過ぎ去りました。しかし、今度は食べ物が心配です。

積み込んでいたコメは少なく、13人でわずか1升のカユをすすって、うえをしのがなければなりません。
そのコメもなくなり、残っているのは積み荷の酒とサトウだけで、それをとかして、火にあたためたものが食事です。
魚をつったりしてうえをしのぎました。

大風での遭難

2、 助かった!

「きょうは、お正月だな...」
だれかがいってます。
うとうとしていた太吉は、ハッとして目をさましました。
「もう3ヵ月も流されとっとか」

大海原を流されて、どこにいるのやら、さっぱりわかりません。
幸いなことは気温が暖かく、ポカポカ陽気が続くことです。
みんな毎日うとうとしながら過ごしているのです。

「船だぞーッ。みなの衆、船が見えるぞ!」
正月からひと月たったある日のことです。
ぼんやりしていた太吉の目の前に、白い点が見えました。
その白い点はこちらへぐんぐん近づいてきます。みんなは飛び上がって喜びました。
まもなく大きな黒船が3本の白帆をいっぱいにふくらませてやってきました。

「???????」
背の高い、赤い眼の毛むくじゃらの異人が何やら話しています。
どうやら手まねとことば使いから見ると、黒船に移れというのでしょう。

「ああ、よかった。助かったわい。」
「いや、移ってもどうされるか、わからんからね。」

助かるのはうれしいのですが、相手は今まで見たこともない、異人たちです。

3、黒船

「みなの衆。助けてもらおうじゃないか。」
船頭のひと声で、全員黒船に乗りこみました。

13人の命を4カ月も守ってくれた永住丸が、だんだん流れさります。
帆柱はおれ、船鮒板はあちこちが破れ、うらぶれた姿です。
太吉はあらためて、命の助かったことを猛島神社に感謝しました。
「よくもまあ、あがん小船にいのちばあずけたもんたい。」

太吉たちを助けた黒船は、スペインの貿易船です。
長さ30メ-トル、幅7メートルもあって、大砲が2門そなえ付けられています。
船の上部には板をはった床が二重になっていて、これなら荒波でも海水が入り込むことはないでしょう。
帆柱3本立っていて、横帆もたて帆もあって、どんな風でも受けられるでしょう。
それですごいスピードで海をすべるように走れるのです。
「船頭さん、異人の船ってよーできちょっとですね。」

あちこち船中を見てまわっていた太吉は感心しています。

「そうです、太吉どん。黒船っていうやつは、ただ大きいだけじゃない。異人どもが長年、大海原を走りまわってくふうを重ね、いろんなしかけをつくったんじゃ。
それに比べて、うちらの船ときたら、昔のままじゃけんね」

4、メキシコぐらし

黒船はひと月走ってメキシコにつきました。太吉たちはサンポセのサントウカという村に上陸しました。
その夜は野宿です。近くの農家から借りてきた牛の毛皮を、木の下にしいて寝ました。
真っくらですが、星がきらきらとかがやいています。

「太吉どん、星までかわっていますのう。」
そういわれると、いつも北の上にある七つ星が見えません。
星までかわっている異国に流された不運に、自然と涙が流れました。

夜があけました。近所の農家で朝食をごちそうになりました。小さな焼物に、白い水のようなあまみのある飲みものが出ました。
牛の乳だそうです。つぎにトウモロコシのむしたモチと牛の肉が出ました。おしまいは果物です。
メロンといって、それはあまい香りのよい、おいしい食ものです。
「ありがとうございました。おいしかったですよ。」

思いのよらぬ親切に感謝して、なんども頭を下げました。
集まっている村人は、笑っています。太吉たちは1人ずつ村人にあずけられるようになり、太吉はシャモンさんの家でくらすことになりました。

5、島原を思う

りっぱなヒゲの持ち主であるシャモンさんは、サラサの服とズボンを着て、皮のクツをはいています。
奥さんの服は肩と胸の少しあいた上着で、そでにゆるやかなヒダがついています。
それにハカマのようなスカートを着て、カミは赤毛で長く、三つ組にしています。

サントウカの村は後に山があり、前に海が広がっていて、なんだか島原の城下が思い出されます。
「こん海の向こうに島原があっとばってん、みんなどがんしよっとじゃろかい」

異国でのくらしになれてきましたが、島原とは違うことばかりで、夏の暑さにはへいこうしました。
雨はまったく降らず、村や山は赤ちゃけています。村人は家の中で眠ったように過ごしています。

太吉とマレナ

6、友だちマレナ

11月になり、カーニバルが始まりました。
まわりの村や山向うの村からも多くの人が集まって、歌ったりおどったりで大にぎわいです。
なかでも一番の呼びものは闘牛です。
あばれ牛のツノに銀貨を入れた布を結びつけ、それを取り合うものです。
元気のいい若者がつぎつぎに飛びかかります。見物しているおおぜいの人はおお声で応援です。

毎日の願いが通じたのでしょうか、国際貿易港のマサットランへ行く船が見つかりました。
メキシコ本土にある大きな湊町です。スペインやイギリス、オランダ、アメリカ、そして中国と色とりどりの旗をなびかせた大型船が泊っています。
蒸気船もいて、にぎわっています。
帰国の機会を待つ間、雑貨店で働くことになりました。旅費をかせぐためです。

ある日、太吉が仕事をしていると、店の娘マレナがやってきました。
「コモソヤマ?コモソヤマ?」羊をさしていっています。ハハーン、日本語で何というか聞いているのだなと、思いつきました。
「ヒ・ツ・ジ」 こんどは太吉をさして「コモソヤマ?」「タ・キ・チ」 それからというものは、タキチ、タキチと呼ばれてすっかり仲良しになりました。
そしていろんなコトバをたくさん習いました。

7、アリュウス、マレナ

メキシコはいいところです。
すっかりなれてきましたが、やはり島原のことが忘れられません。
異国で仕事に精を出すのも、いつの日にか帰国するのだという目標があるからです。
こうしてまた一年たちました。
前から願っていた夢が実現することになりました。

「アリュウス、タキチ」
「サヨウナラ、マレナさん、アリュウス…‥」

一年あまり働いた店の主人たちともお別れです。
今まで無事に過ごせたのも、メキシコの人たちの暖かい手助けがあったからです。
親切な人と別れるのはつらいですが、島原には家族が待っています。
「アリュウス、マサットランのみなさーん!」

帆にいっぱいの風をふくませて、太吉を乗せた船はぐんぐん西へと進みます。
2カ月後にフィリッピンのマニラに、さらに船を乗りかえて中国のマカオに着きました。

出迎えたウイリアム神父は仕事のかたわら、太吉のような日本人を世話をしているのです。
せっかく中国まで来たのに、戦争が起こって、1年足間足止めです。
やっと帰国の船が見つかりました。金泰平号という長崎貿易船です。
20日の船旅です。
ミドリの島影が春カスミの中に見えだしました。
「日本だ、日本だーッ!」

8、やっと長崎へ

ズドーン ズドーン 入港の合図の大砲です。太吉の帰国を歓迎しているかのようです。
1884(弘化2)年長崎に着きました。思えば長い4年間でした。
しかしすぐには家へ帰してもらえません。奉行所につれていかれ、閉じ込められました。
船がそう難したとはいえ、鎖国の決まりを破ったので、きびしい取り調べです。

「名前と生国をもうせ。」
「ヘイ、島原の太吉といやす。46歳でござります。」
「どうして異国へ行ったのじゃ」
「乗り船が大風で流されたとです。」
とくにキリスト教についてはきびしくたずねられました。
「長崎まできちょっとに、まだ帰られん。」

9、「墨是可新話」

やっと帰宅の許可が出ました。
島原から引き取りの役人が来て、郷里への道を足取り軽く歩いています。
「やっぱし、クニはよかにゃ、メキシコとは空気まで違うけんね~」

白く輝く島原城がだんだん大きく見えてきました。
その下を通って、家に着きました。

「ばーちゃん! 帰ったぞー。」
「あれま 太吉! よう生きて帰って……。」

翌朝、猛島神社へお参りしたことはいうまでもありません。
無事に帰国できたのも、猛島さんのおかげですから。
毎日、太吉の家へは大ぜいの人が訪ねてきます。
異国の話を聞いたり、めずらしい品物を見たり、外出すると、子どもたちがどこまでもついてきます。
そしてはしゃぎます。

<メキシコ帰りの太吉どん~>
この話はお城まで伝わりました。
さっそく蘭学者から呼ばれて、いろいろとたずねられました。
そして『墨是可新話』という本にまとめられ、島原藩の重要な書物となりました。

その後、太吉は長生きして、75歳でなくなりました。新しい時代となったころです。(終)

(次回は、島原城のつぶやき)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第2回おとうの見た合戦
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