記事
4.182019
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
1、弱虫機関車
「一号機関車、発車!」 金子駅長さんが白い手袋の右手を挙げ、力強く言いました。
<ピィーッ> 汽笛を鳴らした吉村運転手さんがレバーを引くと、一号機関車は静かに動き出しました。
<シュッツ、シュッツ、シュッツ、シュツシュツシュツ、、、、、> 白い蒸気をあたり一面に吹き出して、見送りの人たちの小旗をかき分けるように進みます。
「一号機関車、サヨウナラ-ッ」「バンザイー」「バンザーイ!」島原駅に集まっていた沢山の人たちは、別れの言葉を口々に言っています。
楽隊の演奏に送られての出発です。
a昭和5(1930)年の初夏のことでした。
この日を最後に、一号機関車はもう島原半島から姿を消すのです。
先ほどのお別れ式で、植木社長は話しました。
「我が一号機関車は明治4(1871)年、イギリス国のバルカンハウンドリー社で生まれました。
直ぐに日本へ積み出されて、翌年に開業した鉄道院(今のJRのもと)の、日本最初の機関車として、<汽笛一声新橋を、はやわが汽車は離れたり、、、>
と、東京・横浜間を走った、輝かしい歴史を背負った機関車です。
首都を40年近く走り続け、さらに我が島原鉄道が開業するとき、再び島原最初の機関車となって20年間、私たちの足となって活躍したものです。
この60年もの長い間に64万キロを走行し、実に地球を16周する大業を成しとげました。
この一号機関車を、永久に保存しようという運動が起こりました。
我が島原鉄道では残念ですが、日本の鉄道の歴史を飾る1ページを作り出した、この一号機関車を喜んで博物館へ送り出したいものです」
駅前を埋め尽くしていた見送りの人を前にして話している植木社長の目には何か光るものさえ見えました。
停車している一号機関車のプレートナンバー“1”が、かっと照りつけた太陽で金色に光っています。
その下には新しいプレートが取り付けられています。
<惜別感無量昭和5年6月為記念島原鉄道社長植木元太郎識><シュッシュッ、シュッシュッ、ピィーツ!カッタン、コットン、カッタン、コットン、、、、>
三会駅、大三東駅と順調に走り抜けました。
2、 勝太郎坂
「中村君、石炭ばたいそうくべんば!」「ハイッ」<シュッシュッ、シュッシュッ、ピィーツ!>石炭を腹いっぱいに食い込んだ一号機関車は蒸気を上げて、力強く長い坂へ向かっていきます。
ここは大三東村菅の勝太郎坂です。
大野原台地を横切る長い勾配の続く坂で、一番の難所です。
力の弱かった昔の機関車は。
この坂が登れずに立ち往生したこともありました。
こんな時です、踏切番の勝太郎じいさんが、「コラッ、がんばらんかー!弱虫機関車め」としかり、そして励ましてくれました。
それで運転士さんたちは、この坂を勝太郎坂といい合ったものです。
一号機関車も、ここで何回勝太郎じいさんに叱られたことでしょうか。
吉村運転士さんも新米のときは、何度も泣かされたものです。
カマたきでは大変苦労しました。
ここでは石炭をたき続けで、汗を拭くヒマもありません。
ちょっとでも休むともうだめです。
<グス、グス、グスグス、シューツ>汽車は止まります。
そんな時にはもう一度バックして、勢いをつけて一気に乗り切らねばなりません。
「一号よい、なんしろお前は弱虫んくせに、大飯食いだったもんね」そう言ってレバーをグイッと引き、シリンダーへ蒸気をいっぱいに送り込みました。
<シュッシュ、シュッシュ、、>長い煙突からもくもくと黒い煙をはき、シリンダーからは白い蒸気をいっぱいに出しながら、一号機関車はゆっくりと坂を登っていきます。
勝太郎じいさんの跡を継いだキクエおばあさんが遮断器を下ろして、安全確認の緑の旗を振っています。
近所の子どもたちも集まって見送りです。
「サヨウナラ、東京ではゆっくり休めや」<ピィーッ!>
3、植木元太郎
湯江駅を過ぎ多比良町駅に着きました。
ここは植木元太郎社長が生まれたところです。
植木さんは、まだ武士が世の中を支配していた安政4(1857)年に生まれました。
家は酒造りも営む大農家です。
元太郎少年は小さいころから、好奇心あふれる子どもで、長崎や鹿島(佐賀県鹿島市)まで学問をしに出かけました。
18歳の時から、亡くなった父の後を受け継いで酒造りに精を出して、経営者としても腕を磨きました。
明治の新しい世の中になって、長崎の港から生糸やお茶などが外国にも売り出されるようになると、島原半島の村々でもカイコを育て、生糸作りが盛んになりました。
いろんな学問を積んでいる植木さんは、京都に出かけて養蚕や織物の技術者を招いたり、製糸業の中心地の信州(今の長野県)から、はた織りの機械を買い入れたりしました。
時代の動きに素早く目をつけ、そして何よりも郷土の産業の発達に尽くす植木さんの働きは、地域の人たちに大変感謝されました。
それで、みんなから推せんされて県会議員に当選し、さらに開設間もない国会議員にもなって、政治面でも大活躍です。
「さすが東京は都会ばい、賑わっちょる。
文明開化で、みんなの暮らしはどんどん変わつちょるたい。
島原にも、こん東京ン風ば送らにゃいかん」植木さんは島原半島に鉄道を敷くことを思い立ちました。
多比良駅ではしばらく停車です。
<コンコン、コンコン、コンコンコン>吉村運転士は小さなハンマーをもって、車輪やシリンダーなどの車体のあちこちを点検しています。
「うん、異常なしだ」もう59年も走りずくめなのに、手入れが良くいきわたっているのか、まだまだ十分動き回れそうです。
博物館に送り出すために、機関庫の人たちがペンキを塗り直したり、隅ずみまでに磨き上げたりして、今日の晴れ姿を迎えました。
4、愛野駅
<カッタン、コットン、カッタン、コットン、>神代町駅、西郷駅、古部駅と進みます。
島原半島に鉄道を敷くために、各町や村の地主さんたちは協力しましたが、土地の買収には頭を痛めました。
何度も土地交渉で植木社長は足を運びました。
古部駅は有明海を埋め立てて造りました。
それでか数年前の台風では、線路と駅の建物が大波で流されて、ひと月近くも不通になったこともありました。
広い平野の中に山田村駅があります。
この辺は島原半島の米蔵で、稲が青々と茂っています。
きっと今年も豊作でしょう。
秋から冬にかけて米を運ぶ貨物列車で賑わいそうです。
愛野村駅に着きました。
ここで石炭と水の補給をし、一号機関車は一休みです。
愛野村駅は記念すべき駅です。
諫早・愛野村間に初めて汽車が走ったところで、それは明治44(1911)年のことでした。
この時、一号機関車は4台の仲間と一緒に東京からやって来ました。
同時に10両の客車、貨車7両も一緒に買い入れられました。
前の年から始まった敷設工事は順調にはかどり、一日に50メートルの割合でレールは島原を目指して伸びていきました。
諫早の城山下のトンネル工事、森山・愛野境の有明川に43メートルの鉄橋づくりなど、難工事もありましたが無事に終わり、9か月の工期でできあがりです。
植木社長は毎日のように、背広姿にわらじ履き、ゲートルを足に巻いて、大きなステッキをもって工事現場へ足を運びました。
そして工事を見回り、人夫さんを励ましました。
日本最初の鉄道が開通したのは、植木社長が14歳のときで、長崎で学習していた頃です。
植木さんの成長と共に鉄道が延びていき、長崎が東京とレールで結ばれたのは40歳の時でした。
前々から鉄道の重要性に気付いていた植木さんは、各地で話して回りました。
5、島原鉄道株式会社創立
「もう諫早まで鉄道が来ちょっとです。
島原まであとわずかです。
早よう鉄道ば引き、長崎でん、博多、東京までも、楽に行けるようにしましょうで」各町や村の主だった人や町長・村長さんたちの協力を得て、私設鉄道営業の免許を申請しました。
<島原地方の産業の発展と文化の向上の為に諫早町と島原湊町の間42.3キロメートルに鉄道を敷設したい。
その資金を65万円とする>翌年には国から認められて、鉄道営業の免許が下り、長い間の夢が実現へ大きく歩み出しました。
しかし次の難問がひかえています。
予算オーバーで、90万円もの資金集めが大変でした。
何しろ日露戦争後の不景気で、島原地方でも江戸時代から続いた大金持が潰れたり、大切な土地を手放す農民も多かった頃です。
「島原鉄道株式会社をつくり、みんなから広く資金を集めよう」「植木元太郎さんを社長に選んで、この大事業をぜひ成功させよう」会社をつくる総会が島原町の快光院で開かれました。
広い御堂にはあふれるばかりの人が集まり、ぜひ島原地方にも鉄道を敷くのだという熱意であふれていました。
6、一番列車
<シュツシュツ、シュツシュツ、シュツシュツ、、、>一番長い有明鉄橋を渡ります。
数百年の長い間に少しずつ干拓してできた広い諫早平野の中を進みます。
森山駅、小野村駅を通り、本諫早駅に着きました。
諫早の町はずれにある本諫早駅です。
有明海の方から登る朝日に向かって一番列車が発車しました。
明治44(1911)年6月20日6時40分のことです。
<ピィーッ!>計画から5年、いろんな難問題を解決して今一号機関車は3両の客車と貨車を引いて、力強く出発です。
<カッタン、コットン、カッタン、コットン>「汽車が来たぞ!汽車が来たぞ!」線路沿いの道や空き地には黒山の人だかりです。
一番列車を見ようと集まっている人をかき分けるように<ピィーッピィーッ>と、一番汽車は進みます。
学校では勉強を取りやめて汽車見物です。
駅にはたくさんの子どもたちが集まっています。
その中を山高帽子に紋付き羽織姿の地主さんたちが、ニコニコしながら汽車に乗込みます。
<ピィーッ!シュッ、シュッ、シュッシュッ、シュッシュッ、、、カッタン、コットン、カッタン、コットン、、、>初めて汽車を目にした人は、ただ口をポカンと開けているだけです。
話す言葉も見出せずに、いつまでも立ちずくめているだけでした。
なかには黒い煙を吸い込んだために、倒れる人も出る始末。
一号機関車は、その様な人たちの中を得意顔で走り抜けました。
7、鉄道は延びる、南へ北へ
当時の乗車運賃は本諫早から愛野村まで14銭で、長崎までは36銭、博多までは1円84銭でした。
その博多へもその日に着くことができました。
今まで、島原から諫早まで行くのでさえも、乗合馬車を使って一日がかりで、歩いて行く人は途中の山田村で一泊したものです。
村々のお米や農作物を送りだしたり、都会の品物を仕入れるのに大変苦労しましたが、これからは便利になることでしょう。
鉄道の開通は島原半島の町や村の人たちに、計り知れない恩恵を与えたのです。
それがさらに延びて、大正元(1912)年には神代町駅まで、翌年5月には大三東駅へ、そして9月24日には島原湊駅まで開通しました。
その日、島原町の霊丘公園で盛大な開通式が行われ、町中は大賑わいでした。
さらに南に延びて、昭和3(1928)年には加津佐駅まで全通、島原鉄道が完成します。
<シューッー、ガッタン、シューッー、シューッー>一号機関車は諫早駅に着きました。
一号機関車の最後の旅は終わりました。
<ピィ―――ッ>最後の、ひときわ長い汽笛を鳴らした吉村運転士さんは、レバーを戻してエンジンを切りました。
「一号よい、東京で会おう。
達者で暮せよ」そう言って車体に光っているナンバー“1”をなでました。
そしたらブルンと動きました。
「ハーイ」と返事をしたのでしょうか。
(終)
次回は、「さびしい同窓会」
先生の紹介
松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!
過去の記事はこちら。
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第5回 島原大変肥後迷惑
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第4回 たたかう金作
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第3回 いのちある限り
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第2回おとうの見た合戦
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第1回くれ石原をかけめぐる
松尾先生の島原街道アゲイン 最終回 「深江~安中」
松尾先生の島原街道アゲイン「有家~布津」
松尾先生の島原街道アゲイン「北有馬~西有家」
松尾先生の島原街道アゲイン「口之津~南有馬」
松尾先生の島原街道アゲイン「南串山~加津佐」
松尾先生の島原街道アゲイン「千々石~小浜」
松尾先生の島原街道アゲイン「吾妻~愛野」
松尾先生の島原街道アゲイン「国見~瑞穂」
松尾先生の島原街道アゲイン「三会~湯江編」
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」