松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次の島原歴史探訪」放送中!
記事
4.222016
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
はじめに
歩け歩け!一日に1万歩を目標として歩く人が多い。健康のために歩くことが大切だと、せっせと歩いている。
歩くこと、それは昔の人にとってはごく普通、生活の一部だった。どこへ行くにも歩いて行った。
旅となると一日に7里内外(約30キロ)の行程で、島原から山田(吾妻町)までで、それが翌日に疲れを残さぬコースであった。実際、藩主の参勤交代時もそうである。
島原には殿様道、つまり往還(メインストリート)があった。この道で各町村は結ばれ、人々は往来していた。それは島原街道といって、江戸まで続く道であった。
昔の県道、今の国道(57号、251号線)と変わり、たどると島原半島を一周できる。
歩いてみると、その土地の歴史や風土がよく分かり有難い。皆さんも歩いてみませんか。
今年は「島原街道。アゲイン」シリーズだ。今月は「島原市街地編」
島原街道(北目道)
大手御門前~上の町~猛島神社前~田町供養塔前~北門交差点~二軒茶屋~三会大手原~駅前~洗切~松尾浜~大三東駅前~東小路~大三東小前~勝光寺前~湯江川沿い~湯江小前~温泉屋敷~栗谷川橋~下高下~多比良小前~土黒川沿い~篠原四つ角~国見中前~神代大門~淡島社下~小路横~鶴亀城址西~長浜~西郷舟津~伊古~大川~大正小跡~古部駅前~道祖崎~田内川~鶴田小前~吾妻駅前~大熊~阿母崎駅前~阿母崎~愛野舟津~愛野駅前~温泉神社下~土居口番所跡~山王神社下
(南目道)
大手御門前~万町~中堀町水頭~白土町~崩山~新山~六本松~安中大下~茶屋松橋~深江原~瀬野追分~諏訪神社裏~深江本町~深江川橋~平之坂~飯野~新川眼鏡橋~三本松~中通~円通寺裏~寺田~堂崎浜~天満宮前~新切~境目~蒲河浜~白崎~専念寺前~有家上町~亀渕橋~天満宮下~翔南高下~引無田~西之坂~龍石~田平春日神社前~橋口~有馬川日野江橋
(西目道)
南有馬常光寺前~天満宮横~町口~下町~露田~古野公園~吉川下潟~山洞~口之津大屋~貝瀬橋~真米~口加高前~野間水~女島横~浜町~東加津佐小横~道原~白坂~路木~英彦山入口~日原~門山~境川橋~北串原~金浜眼鏡橋~木指~南・北本町~北野~山嶺~葛坂峠~千々石木場~高野~舟津~塩屋~千々石峠~首塚~愛野中野(番所跡)
1. 大手御門
島原街道の出発・終点は大手門前。それで大手門跡の石柱地点から出発して、市街地を一巡り。
島原の乱時にはここで大激戦があったが、一揆軍は攻め落とせずに引揚げる。
しかし城兵はひと月籠城を強いられる。その大手門も明治初年には取り壊されて今では裁判所が建つ。
ここから見る島原城は天下一品。堀から15㍍上に矢狭間を持つ瓦葺塀、その上に立つ三層櫓と白色総塗込の五層の天守が33㍍の高さにそびえ立つ。
土台の石垣には幾重もの折れ(突角)が見られ、それは防衛上の死角をなくすると同時に城の権威付けを狙っている。
それがまた島原城に美観を醸し出す。この島原城もお役目御免と払い下げとなり、天守も登閣ご免と、多くの町人農民が展望を楽しんだ。
とうとう明治9年には買い手がつかず引き倒しとなる。以来、島原城は裸の城となっていた。
約1世紀後に天守が復元して、観光島原のランドマークとなる。
2.城下町
島原城下町は古町・新町・三会町からなり、3町合わせて戸数834軒、人口4433人であった。それぞれに別当がいて、その筆頭が古町の中村孫右衛門家。
今もその屋敷門が残されているが、間口10㍍、9坪半の木造瓦葺入母屋造りの堂々たるもの。
島原町人の勢力のすごさを伝えている。古町と新町は、かつての湊時代の町を分割して拡張したものか。三会町は松倉時代に新しく開かれた町であろう。町並みは3~4本の大通りと横町からなり碁盤目状に区画されている。
松倉氏は城づくりと同時に町づくりにも優れていた。それでか江東寺の墓所では、松倉重政公の墓碑を守るかのように別当3家の墓が取り囲んでいる。
大手川を渡って繁華街を歩く、入口に豊国屋が架けた石橋があって、明治初年に象が通過した時に地葺石の一部が壊れたそうだ。
万町・堀町、新町の大店や小間物屋、飯屋などが軒を連ねていたろう。
今も昔も変わらぬ賑いであった。間もなく築城・城下町開府400周年となる。松倉重政を再評価する必要あり。
中堀町の一角に高さ3㍍もの宝篋印型塔が立っている。ここは水頭といって島原湊の中心地であった。
それが寛政の大地変で埋没し、5000人もの町人が犠牲となる。生き残った町人はこの供養塔を建て懇ろに祀った。
今でもそれは続き、毎年春の一日に津波供養をしていらっしゃる。
3.白土湖水
眉山の崩壊で流れ山がこの一帯を覆い、堰き止められた白土・上の原一帯に湧水があふれ出す。
善法寺前~旧桜井寺裏まで水浸しとなり、このままでは城下町の復旧に支障をきたすと、藩庁は大池の水抜きを図る。
大手御門前に高札を出したら有家の商人が請け負う。秋から翌年春までと突貫作業。
旧海岸線を掘りこみ、水位を約1㍍下げることに成功。その水路は高低差があまりないので水音がしない、それで音無川と呼ぶ。
以来、200年余り水は湧き出て有明海へ流失。その水量は30万人の生活を賄うという。ここだけでなく市内各地で湧水が見られ、水の郷は山奥にあるのではなく、城下町にある。
これまた他所に比べられない良さである。豪商は庭づくりに泉水を上手に利用した「水屋敷」を築く。
この屋敷や離れは接客やサロンに利用されている。これまた島原町人の心豊かな暮らしぶりが現れている。
真に「水の都・島原」である。
4.湊と舟津
もともと島原は有明海交通の要地で、それで松倉重政は築城し、城下町を開いたという。
島原は古代からの港町だ。「島原大概様子書」には、船掛長さ120間、幅150間程、船500艘程掛ると書かれている。
それが寛政の大変後、この一帯に流れ山や島が打ち寄せて海岸線が約800㍍東へ広がる。
その入江や島影、浅瀬に以前にも増して良港と魚場が出来る。新地から南風泊・天草泊の海岸には風待ち、汐待ちの帆船の帆柱が林立していた。
明治中期には年間15,000艘の出船入船が記録されている。汽船が通い、三角・三池航路や沿岸航路が開かれて賑う。
さらに1960年代に観光ブームを迎え、船の大型化で外港へと移転。島原・雲仙・小浜間が舗装されて有料化となり、国道の整備と相まって多くの観光バスが島原港へ集中する。
島原港の賑いが懐かしく思い出される。
大変後、浜の川水源近くに漁業集落が発達する。
三会町の南端から有馬舟津が、白土町の海岸から白土舟津が、南有馬村から船乗りが集まって浦田舟津が、白水川河口に新しく船溜まりが開けて元舟津がそれぞれ形成される。
こうして明治中期には4舟津集落で460戸の漁家が記録され、県下有数の地。今では想像できない漁業の盛んな地であった。
5.霊丘公園
島原一広い公園で、入口には神社の大きな鳥居が立つ。左手には植木元太郎社長の立像、右手に最後の蒸気機関車が置かれている。
1913年、ここで島原鉄道の開通式が開かれ、その盛大なようすが写真に残る。そのシマテツの歴史の展示場でもある。
また島原の歴史がこもっている地で、丸山作楽の頌徳碑、千々石出身の南画家・釧雲泉の記念碑など多くの碑が立つ。
周りの丘や広っぱは人々の憩いの場であり、花見や観月、運動会や遠足にと、四季折々に賑わっていた。今では初市の場である。
もとは権現山といい、権現様・東照宮(徳川家康)を祀ったところでそう呼ばれた。
明治維新で改修することになり、歴代島原藩主の霊や宗像大神などを合わせて祀る霊丘神社が創建された。
ここの東端に高井山があるが、そこで「お糸事件」が起こる。平和な島原で起こった主人殺しは150年も前のことだが今でも語りつづけられる。
初市では「のぞき」という見世物になっていて、人々の興味をかき立てていた。
6.上の町
市内をあちこち回ったが、いよいよ島原半島一周の旅へと出発だ。
その昔、江戸へと旅立つお殿様もここを「したい、したい(下に下に)」と行列をつくってしずしずと通る。
町の北はずれを右折して猛島神社前へ、それから海伝いの道を進む。ここは江戸や各地へと通じる道で、島原の出入口で賑わっていた。
百年前に島原鉄道が開通すると、島原を訪れる人をさらに集め、北目からの買い物客を呼び込み、島原一の繁華街となる。
反物・呉服店、木綿問屋、酒造場、旅籠など大型町屋が今でも残っている。
この一帯は三会町といい、城寄りの通りが上の町、次が中町、海側が片町。その南に有馬町が、北に宮の丁があった。
7.猛島神社
ここは島原の氏神様。その昔、今の高島町にあって鷹島神社といった。
松倉重政が島原城築城の時、鬼門にあたるこの地に移築して守護神としたもの。昔の地図を見ると、ここから南に砂州が延び、天の島といい、島原湊の防波堤の役割を果たしていた。
取り囲まれた内海は良港となり、港町・島原をつくりだした。松平時代になるとその島の中央に東照宮が建立され、それで権現山ともいった。
また猛島神社は松平忠房により、7万石の領国の総社として改修される。大変後地形が変わり、町側と陸続きとなった。その一帯の内海を干拓して三好屋新田ができる。
豪商の三好屋要右衛門が窮民の救済策として干拓事業を始め、7ヘクタールの農地を切り拓く。
幕末になると、島原藩も海防のために海岸沿いに砲台を築き、大砲を備え付ける。
島原にもお台場があったのだ。
8.沖田畷
街道は海沿を通る。島原大変時にはこの海岸に多くの流死者が打ち寄せられた。
ここに大きな流死者供養塔が立つ。このように被害の多かった地に、藩命で供養塔が7基立てられている。
200年もたつ現在も土地の人が懇に供養している。
さらに水田の中を進む。今の国道251線だ。その道裏に、龍造寺隆信の供養塔がひっそりと立つ。
この地で1585年、侵入する佐賀の龍造寺隆信軍を、有馬晴信は島津義久軍の応援を得て迎え撃つ。
これが沖田畷の合戦である。南の島津氏と争っていた龍造寺氏は、地の利の良い島原に目をつけて侵略、領主有馬氏は島津氏に援軍を依頼する。
戦力的に不利であったが、南蛮の支援もあって有馬晴信が勝つ。
大将の隆信が首を取られる。有馬氏は領国防衛に成功して、キリシタン大名としての地位をますます高める。
この戦いは九州の戦国時代を終わらせた合戦といわれ、歴史的転換の地がここにある。
今、供養塔と共に、3000人ともいわれた戦死者を祀る二本木神社が近くに建つ。
(次回は、三会・大三東・湯江)
先生の紹介
過去の記事はこちら。
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」