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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の七

島原半島の5世紀ごろから明治時代まで、歴史のクイズを解きながら、「島原の歴史」を探求して見ようと思います。
皆さんも一緒に考えてみてください。
では、問題です。

問題はコチラ

Q1 松倉氏が島原城築城と同時に作った城下町には3町がありましたが、その町名は?
Q2 明治時代、島原半島でも養蚕・製糸業が盛んになりましたが、天然の冷蔵庫として蚕の保存に活用されていた雲仙岳の場所とは?
Q3 島原大変の後、水が枯れた中木場村に水道を敷設した庄屋の名は?
Q4 島原藩最後の藩主、松平忠和の父親の名は?

A1 大塚古墳 ― 大塚古墳(雲仙市吾妻町守山地区) ―

島原半島でただ一つの前方後円墳である。
全長約70mもあって、県下で1、2を争う大きさである。
5世紀後半から6世紀初めに築造されたものであろう。
前方部は長さ約25m、幅約20mの四角形の台地。
後円部は直径約45mで高さ約7mとお椀型。
それが水田のど真ん中に盛り土されて墳丘となっている。
内部には竪穴式石室があったろうが、今では守山地区の共同墓地になっているから、未調査である。
ここ田内川から山田川一帯に水田が広がり、今日でも県下有数の農業地帯になっている。
この広大な水田を根拠にした小国家が存在し、これだけの古墳を築くことの出来る豪族が統治していたようである。
この豪族は北部九州連合政権の一員として、島原半島を支配していたのであろう。

大塚古墳(雲仙市吾妻町)

大塚古墳(雲仙市吾妻町)

 

 

A2 松平忠刻 ― 櫨・木?はぜ・もくろう(島原半島)―

島原地方の山野の初冬を彩るのが櫨紅葉である。
鮮やかな赤で一面を染める。
櫨・木?は藩政時代から島原地方を支えた一大地場産業であった。
松倉重政が入封した頃から領内に櫨を栽培するようになり、1744(延享1)年には、藩主松平忠刻が「領内に櫨5万株を植えさせ、後にまた5万株を増殖さす」とあり、島原藩でも本格的に櫨栽培が行われて、木?の生産が向上した。
さらに櫨方役所を置き、専売制を敷いて藩財政の増収を図った。
特に島原大変後は藩財政の危機の克服と領内経済成長のために、櫨の増産が打ち出されて、櫨の実を100万斤買い上げる体制となった。
このころ高品質の「福櫨」が発見、改良されて生産量が増加した。
1796(寛政8)年には、「凡高平均年400万斤のつもり、この?56万斤‥‥」と目論見、大坂へ生?40万斤余り送り、その代銀年間5000両から7000両を受け取るようになっていた。
これらの益金が島原大変後の復興資金に活用され、藩財政、ひいては領内産業を伸ばし、村と農民を豊かにしていくのである。

木?圧搾器ー?船(島原城天守閣1階)

木?圧搾器ー?船(島原城天守閣1階)

 

A3 アルノルドゥス・モンタヌス ― 雲仙地獄・殉教の地(小浜町雲仙地区) ―

雲仙火山は霊地としても知られていた。
巡礼者は火山の噴火口を間近に見て、その様子から「地獄」と称していた。
灼熱の地面、煮えたぎる湯を地獄に例え、悪者が陥るところと伝えられた。
この地獄がキリスト教弾圧時代に、拷問と処刑場に利用されたのである。
松倉重政が新領主として入封すると、厳しくキリスト教を取り締まった。
各地で棄教を勧める拷問が始まった。
1627(寛永4)年以後、地獄責めが始まり、島原半島各地や長崎からも信者が引き立てられた。
地獄の熱湯で棄教を強制し、棄教に応じなければ容赦なく地獄に投げ込んだ。
それで多くの信者が殉教した。
この悲惨な様子はヨーロッパにも伝えられたほどで、モンタヌス画「地獄責め図」が残されている。

雲仙地獄・キリシタン殉教碑(雲仙温泉観光協会提供)

雲仙地獄・キリシタン殉教碑(雲仙温泉観光協会提供)

A4 清水作次郎 ― 島原中学校と島原高女(島原市城内一丁目・口之津町) ―

「学制」の発布で小学校教育が始まった。
島原では町の有力者が2000円の基金を集め、島原城内の一角に「一番学校」を、新町別当宅に「二番学校」を開校した。
しかし各町村にとって学校開設は大きな負担であった。
そこで深江村の小林治市は自力で学校を建設し、設備とともに村へ寄付した。
この熱意と功徳に感謝して、村議会は「小林小学校」と校名を決めたほどである。
小学校教育が軌道に乗ると、中等学校設立の動きが高まる。
1900(明治33)年9月、県立島原中学校が開校した。
このために郡内各町村は建設費用を拠出し、旧島原藩主には敷地と建物など一切を寄贈してもらい開校にこぎつけた。
翌1901年には私立島原女子手芸学校も開校した。
これは町の素封家・清水作次郎が私財5000円と旧三の丸一角の私有地1000坪を投じて創立したものである。
島原中学校の創立にかかわった氏は、女子中等学校を早急に実現するには私人の力によるほかはなしと決意した。
その創立は県下でも3~4番目と早い。
やがて郡立・県立島原高等女学校となる。
同様に1902年には、永野仲蔵が私財を投じて私立口之津女子手芸学校(口加高校の前身)を開いた。
この3つの中等学校は、島原半島内の教育に計り知れないほど大きな恩恵をもたらすのである。
【島原高校百周年記念誌】【口加高校百周年記念誌】

清水作次郎頌徳碑(島原市立第一小学校内)

清水作次郎頌徳碑(島原市立第一小学校内)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の六
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の五
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の四
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の三
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の二
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一
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