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乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~①「諫早~愛野」

〈初めに〉

ある日、諫早駅から一気に島原鉄道を乗りつぶしてみようと試みた。
諫早駅出発時には学生たちで一杯。帰宅時間と重なったので賑わっていた。
今年の『もっぱら島原』は、のんびりと旅人になったつもりで路線沿いにさらいてみよう。
そして何かを見つけ出し、島原の今と昔を考えてみよう。ガッタン・ゴットン、、、黄色い島鉄は進む。
一人降り、二人減りと、愛野駅あたりでは空席が目立つ。乗車するお客はほとんどゼロ。島原駅では無人列車となる。
終点の島原外港駅では、私一人となってしまった。
その間1時間30分。
なんとJR博多・諫早間と同じ時間で、つくづくローカル鉄道の悲哀を実感した。
百年も昔、植木元太郎さんを中心に島原半島全体で鉄道敷設に沸き立った話が、今では?と、頭を傾ける。
外港駅からはまだまだ加津佐迄南目へ走っていたが、廃線となり、レールのない線路跡が寂しそう。

1.諫早駅

工事が進む諫早駅周辺

ここに鉄道がやって来たのは1898(明治31)年のことで、長崎線の開通時だ。
最初の鉄道が東京・横浜間を走った26年後には、西の端までつながる。
<すごい!>鉄道は文明開化のシンボルで、またたく間に日本全国へ鉄道網が広がっていく。
それ以前に、在京島原人の丸山作楽や臼井哲夫ら4人は、島原にも鉄道をと、1896(明治29)年「島原鉄道敷設趣意書」を発表、島原を中心に北は諫早、南は口之津、西は小浜へと、島原半島鉄道網の計画を打ち出す。
当時は事業費160万円の数字で驚いたのか、地元島原では話題にもならなかったようだ。
しかし、2年後には、ここ諫早駅で文明開化の化身を目の当たりにして、その利便性に目を奪われる。
何せ島原は「島」で、島原から出るのに普通は2日かかり、諫早へ行くためには山田村で一泊していた。

眼鏡橋(諫早公園内)

急ぎの馬車でも一日がかり。その旅費だけでも1円近くとかさむ。
海路を使っても、朝、島原港を出て南目・西目を回って、小浜から対岸の茂木に上陸。
さらに10キロの山道を越えて長崎着。鉄道ならば、諫早から博多までその日に到着できる。
さらに東京でも、どこまでも行ける便利さ。 文明開化の実態を島原人も知る。
しかし島原は素通りである。
<どうする?>

2.島原鉄道の創立

鉄道敷設熱が出て、3社の競合となる。
有明鉄道(島原・諫早有志)、長崎鉄道(長崎有志)、島原鉄道(在京島原人有志)が仮免許を申請する。
期は熟し、1905(明治38)年に上京した植木元太郎は東京の資産家雨宮啓次郎と知り合い、軽便鉄道敷設の計画を訴える。
さらに帰郷すると田中岩三郎南高来郡長と会談、郡長は書記に調査を命じ、石油発動機軽便鉄道敷設を計画する。
翌年北高来郡長富永正喬や同郡内有志木下吉之丞や野田益晴らに賛同を求める。
島原・諫早両地方から創立委員を各10名選出し、1907(明治40)年に仮免許を申請する。
こうして島原鉄道が創立する。

本諫早駅停車中の島鉄車両

3.永昌宿

今も昔も諫早は交通の要地で、江戸時代は長崎街道が通り、永昌宿が置かれていた。
その地に諫早駅が開かれた。
その元は古代官道で、大宰府から佐賀を通り大村に入り、船越から山田、野鳥を通り、有明海を渡って対岸肥後三角へ連結していた。
江戸時代になると長崎が海外への窓となり、江戸までの大動脈が整備される。
そして多くの文物や旅人が往来する。
そのルートが明治時代になると、九州鉄道(後の省鉄・国鉄)が開通する。
さらに今日、新幹線が引き込まれようとする。
今、諫早駅はその工事中でさらに整備されていくだろう。
また島原地方は取り残されてしまうのか。
記録に出てくる諫早地方の初めは伊佐早庄で、高来郡にあった山田、髪白、千々岩、串山、有馬などの荘園の一つ。
今の諫早市域にとどまらぬ広さを持つ。
この地は宇佐八幡宮領で、荘官として伊佐早氏の名が見える。
その後戦国末期まで西郷氏の名が続く。
しかし豊臣秀吉の九州下向後没落して、龍造寺家晴に安堵されて、諫早と改名して佐賀領となり、2万2千石を宛がわれる。
1940年に市制を敷き、平成の大合併で北高来郡全域をまとめて大諫早市となる。

4.本明川

豊かな農業地帯を造り出したのが本明川。
半面、多良岳から流れ出る水は水害を引き起こす。
それで諫早の地は水との戦いといえるぐらい。
江戸時代だけでも9回も洪水に見舞われて、元禄の大洪水では城下町を移さねばならぬ程であった。
記憶に新しいのが1957(昭和32)年の大水害。494人が亡くなり、45人が行方不明。
全壊・流失家屋727戸、被害総額87億円といわれた。
市街地は一面泥と流木で覆われ、名所の眼鏡橋も大被害。
流失こそ免れたが、川をせき止めるようになり、両岸へ濁流をあふれ出す。撤去の議論もあったが、近くの公園に移築されて再び美しい大型眼鏡橋は生き延びた。
諫早の歴史の証人として、母なる川を見守り続けている。
本諫早駅までは、本明川沿いに通す予定であったが、高城一帯は歴史の中心地であるので、山麓にトンネルを掘って迂回する。
路線唯一のトンネルがそれである。
本諫早駅は町の出入り口に開かれ、周辺の人々を集め、商店街が賑わう。
また近くの高城、諫早公園などには観光客を集め、農学校や中学校も開かれて文教地区となるなど、鉄道の効用が現れる。

5.半造川の水道

黄色い気動車は半造川を渡る。
小さな川で気づく人も少ないかもしれないが、旧小野村への水運の重要な地。
一帯は鎌倉時代から始まる干拓地で、有明海を長年かけて農地へと変えていく。
しかし水不足がひどく、干ばつによく見舞われていた。その解決策として1813(文化10)年に底井樋通水を、半造川に通す。
つまり川の下に水路を引いたもの。諫早藩士青木弥惣右衛門が研究の上、見事実現する。
川底に木製の樋管を埋め込み、逆サイホンの原理で水を流す。見事成功で、200年前の先進技術は今も立派に通用して水田を潤し、農業を支えている。
これら干拓の資料館が1994(平成6)年に生まれる。
面積4万坪の地に様々な施設があり、資料館だけでなく、ムツゴロウ水族館や小動物園、わんぱく広場など子どもたちの遊び場がいっぱい。
休日ともなると家族連れやグループで賑わう。
干拓の里駅もできて島鉄も思わぬ増収。

6.小野島航空隊跡

近くに運動公園がある。一帯は広い広い干拓地で、百年前には飛行場も造られていた。
長崎地方航空機乗員養成所が開かれた。逓信省の民間パイロット養成機関であった。
毎年59名が入校し、養成期間は5年、航空機操縦技術、整備技術、航空通信士の資格修得を目指す。
三式陸上練習機(二枚翼、赤トンボ)がぶんぶん、飛んでいた。これを使ったパイロット養成所が開かれ、その分隊が島原にもあった。
瓢箪畑で見た赤トンボはそんな結びつき、歴史があったのか。かっこよい飛行機であった<あこがれる>ね。
戦争の激化で、陸海軍に編入される。
第12期操縦生は1943(昭和18)年9月に卒業すると愛媛海軍航空隊に入隊して3か月間艦攻機により訓練を重ねる。
そして各地の航空隊へ派遣、予備学生や予科練練習生の教官を経て実戦部隊へ配属される。圧倒的な米軍を相手に絶望的な戦闘を強いられて還らぬ人も多かったそう。
神風特別攻撃隊に志願して戦死した人も出る。同期生54人中生存者はわずか5人という。
1945年作成の佐世保鎮守府「特攻配置図」によれば、島原と雲仙は「中錬・機錬特攻基地」となり、ここ小野島と大村は航空基地になり、諫早海軍航空隊に昇格している。
しかし1945年に敗戦。養成所は3年余で解体となり、大空をめざした雛鷲たちは故郷へと去っていく。
生涯忘れられない思い出を抱きながら、、、。その地も今では記念碑が残るのみ。
さらに話は続く。
敗戦によりその年の9月、米軍第2海兵師団特別陸戦隊2万5千が長崎港に上陸。
24日、小野島養成所跡へ続々進駐する。1年後に引揚げるまで占領政策を推進。その時か、初めてジープを見る。
後で聞いた話だが、ジープが島原三小の玄関階段を上がってきたという。また米軍水陸両用戦車がごうごうと市内を走り抜けたり、<すごい!> 一番の驚きは、アフリカ系米兵を見たこと。
真っ黒い大男がカービン銃を持って立哨している。
その頃、有明海では旧日本軍の武器弾薬を投棄処理していたので、島原湊駅裏海岸はその集積地であった。
その時に警備兵を見たわけ。驚いた。
こんなアメリカと戦っていたのだな。敗戦をしみじみと感じた。

干拓の里(干拓資料館と記念碑)

7.森山駅

黄色い気動車は広い平野の中を走る。沿線には雲仙グリーンロードの高規格道の工事が急ピッチで進んでいる。
愛野・森山間が一部出来上がり、近く諫早市小野まで完成し、諫早ICまで結ばれよう。
後は有明・瑞穂間だけとなる。
眺めていると、古い時代の堤防跡が見られる。
長期間にわたる有明海干拓の歴史が刻まれている。
1957(昭和32)年7月の諫早水害時には、この辺り一帯は昔の有明海に逆戻り。広い広い海と化していた。
数百年前の有明海はこうであったろう。町の8割は平野で、北へ沖へと海を干し上げて耕地と替えてきた。
江戸時代には、森山、井牟田、唐古3村があり、特に森山村は、江戸初期の寛文時代から陣野孫右衛門父子が万灯籠を開き、さらに九平次開と続く。
幕末嘉永期には三笠籠など9か所の新田59町が切り開かれる。そして石高780石の村となる。
明治になっても干拓は進み、明六開、十六開などが開発される。
農地が広がると近隣の島原領山田村とのトラブルが増える。
「はじ」と呼ばれる潟に立てた柵が漁に支障ありと、多数の漁船が打ち寄せる。
同様に野井村が立てた「はじ」を森山村側が壊すという紛争も起こっている。
また打ち寄せたクジラをめぐる奪い合いなどなど。
明治初年、この干拓地に県道が通り、明治末には島原鉄道が敷設される。
その時代になると、森山村は戸数1032戸、人口6647人、田412町余、畑344町余と、農業生産中心の村として栄えていく。
始め鉄道は境界の有明川を大曲して、旧島原街道分岐点の山王神社下の二軒茶屋で島原入りの計画だった。
それが、今の愛野駅一帯を切り開いた田中家から用地提供の申し入れがあって、一気に最短距離を通すことになる。
干拓地の土質や50メートルの有明川架橋などの難工事を見事クリアーして、一番列車の開通に間に合わせる。
これらの路線を調査し測量して計画図面を作成したのが、九鉄技師の渋川主一郎。
旧島原藩士の末裔で、父・渋川主水は旧藩主の欧米視察に随行した一人。
欧米の近代工業発展に目を開かされた一人であった。日本初の工学博士原口要と共に、島原鉄道だけでなく日本の鉄道発展に努めた人。
この話はまた後日にも述べよう。

 

 

次回は「愛野駅~神代駅」

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

過去の記事はこちら。

松尾先生のおはなし・島原の歴史 第10回 さびしい同窓会
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第9回 一号機関車発車
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第8回 カナダ移民第一号・永野万蔵
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第7回 島原城のつぶやき
松尾先生のおはなし・島原の歴史 第6回 メキシコ帰りの太吉どん
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