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松尾先生のぶらっとさらく島原 第5回 千々石~小浜

はじめに

千々石町は大きな町である。それはまた歴史の古い地である。
島原地方が初めて国中に紹介されたのは『肥前国風土記』で、そこには千々石の項がある。

愛野町の原口番所跡から出発。
ここは南目道の出入り口になっていて、関所が置かれていた地。
東の土居口番所まで1.3キロ竹矢来と生垣が作られていて、勝手に出入りができなかった。
ここから出発だ。南下する。
首塚を見て、一面ジャガイモ畑の中を通る。広大な千々石断層面を駆け下る。
標高差150m、新生代第三紀の地殻変動で生まれたもの。

 

1.土歯池

眼下に松林に守られた水田が広がる。
ここは7世紀に書かれた「土歯の池」だ。

「高来の郡の南西にあたるところに断層があって、、、、海岸近くに池があって土歯の池という。
池を取り巻く堤の長さは1.8キロ、高さ6mある。ここから千々石という名が起こる。
塩屋を通り、浜へ出た。2キロ余り白浜が続く。街道は防風林を通る。
伝承では、松倉重政が植林させて美田に造り替えたという。

集落に入り、天川屋旅館前を通る。これまた言い伝えで、ここに頼山陽が泊まり、あの有名な詩をつくったそうだ。
事実、1818(文政元)年に長崎から天草へ渡海している。「雲耶山耶呉耶越耶、水天髣髴青一髪、万里泊天草洋、、、」

2.千々石三先人

ちょっと寄り道。千々石支所へ寄る。千々石三先人像を見るためだ。
庭園に千々石を創った3人の像が並んでいる。清らかなまなざしとその姿の「千々石ミゲル」、眼光鋭く気迫あふれる「釧雲泉」、誠実さあふれる胸像「橘周太」。

三先人を訪ねて町内を回る。まず、橘神社だ。
神域5千坪の大社で、昭和15(1940)年に郷土が生んだ軍神・橘周太中佐を祭って建てる。
参道には北村西望作の軍神像と10mの大鳥居がある。

境内には釧雲泉の碑が建ち、幼少時に泥を塗って絵描き遊びをしたという手習い石が置かれている。
江戸時代中期の南画家の山水画は今なお評価が高い。

裏山に釜蓋城が白く光っている。
千々石を一望し、背後に雲仙連山がそびえ立つ。千々石は島原半島南部への出入口であり、有馬領の前線基地であった。
1569(永禄12)年、千々石淡路守が築城したもの。千々石ミゲルの誕生の地である。
佐賀の龍造寺軍が島原半島に侵入した時、この城をめぐって激しい戦がなされてとうとう落城する。
幼少だった千々石直員の子ミゲルは有馬へ行きセミナリョに入学しパードレ(司祭)を目指す。
遣欧少年使節に選ばれてローマ法王に謁見、立派にその役目を果したことはご承知の通り。

千々石遠望

千々石遠望

3. 平松かぶり

街道に戻り町内を歩く。大きな寺がある。
千々石の人の菩提寺ともなる専照寺で、有馬氏の延岡転封直後に創建されたそうで、それならば島原の乱時はどうなっていたのだろうか。
千々石村では一揆参加組は少なく、早々に村を後にしているから寺も続いたろう。
400年も続く名刹である。

乱から220年後、この寺を舞台に千々石一揆が起こる。1847(弘化4)年師走、5~600人の小作人が集まり、談合する。
幕藩体制が緩みだしたこの時期島原領内でも農民の生活が悪化し、災害で3万石の減収、米価の高騰と経済不安が続く。集まった人たちは小作料を半額に、村番人の不正を追及する。
地主たちは小作料の引き下げに同意、収まったかのように見えたが、無届談合は藩庁に報告され、島原から役人と取り手が乗り込んできた。
次々と城下の牢へ引き立てられて、村では不安が高まる。
激しい追及の中でも首謀者を見極めることができず、結局、小倉名の平松を打ち首にして幕引きとなった。

平松は一人で責任を負い、我が身を犠牲にしたそうだ。
平松については謎の部分が多い。
一人で背負うことを「平松かぶり」という言葉が千々石では伝えられている。

4.雲仙鉄道と千々石水力発電所

猿場山の北面を横切る山道となる。海岸の方に見事な弧を描く道が見える。
雲仙鉄道の線路跡で、愛野から千々石を通り小浜北野へ?がっていた。
シュッシュポッポが走っていた汽車道を行く。釜岳下の切り立った崖下を通る。
工事の一番難所で、掘り込みが数百m、トンネルが3つと続いている。
昔は岩壁がむき出しで、今ではコンクリートで固め、フェンスで守られて木々が生い茂り、緑のトンネル。
よくぞこんな地に鉄道を敷設したものだと感心。
木津の浜駅跡にはプラットホーム、石造りの駅名表示板と汽車の勇姿が陶板に焼き付けた記念碑が残る。短命に終わった鉄道をしのんで地区の人たちが建立したものだ。

旧雲仙鉄道のトンネル道

旧雲仙鉄道のトンネル道

街道は千々石第2小学校横に出た。
ここから温泉公園まで9.7キロと、お山・雲仙への近道の木場道だ。
千々石川は急流となり、それに目を付けたのが土地の城台二三郎や広瀬玉彦たちだ。
小浜水力電気会社を創立。ドイツから水車や発電機、鉄管など機材を購入して発電所を完成させた。
島原まで14キロの配電線を引き、700戸へ送電した。明治43(1910)年の元旦の夜のことで、営業発電としては県内で一番早い。
翌年開業した島原鉄道とともに、島原地方の文明開化がここに始まったといってよい。
電灯はまたたく間に各地に広まり、この千々石水系には5つの発電所が誕生した。
千々石の水が島原の光を生み出したのだ。
豊かな自然を郷土の発展に結びつけ、事業化した先人の尽力は忘れてはならない。
100歳を超した発電所が、今もけなげに電気を造りだしている。

5.小浜散策

森林地帯となり、ここらが町境。
葛坂峠で、木と竹交じりの坂道を下る。
小浜町山嶺へ出た。道は雲仙へと町方へと分かれる。
雲仙への近道であったから、昔は古賀千軒、塩屋千軒といわれ、温泉社と満明寺詣での登山口にあたり、賑わっていたのだろう。小浜高校の前を通って、国道へと出る。
横断してすぐのところに雲仙鉄道の終点、小浜北野駅跡がある。
実は小浜鉄道は難関工事と資金不足のためにここで打ち止めと。
温泉町まで直接乗り入れてなかったので、経営上のロスがその寿命を早める。
一妙寺を過ぎ、町中に入った。

小浜村庄屋跡があり、その石垣下から清水がこんこんと湧き出ている。
この辺一帯を上の川湧水群といい、近くの光専寺には清水と岩石を組み合わせた見事な庭園がある。

「うまい!一休みだ」
剣柄神社で玉垣関の頌徳碑を見る。
関取は小浜が生んだスーパースターで、あの雷電関と対戦して人気を博した。
13年間の勝率は何と8割2分という。
島原藩お抱え力士になり、化粧まわしには重ね扇が描かれて、島原藩の名を高めた。
忠馮藩主の葬儀では龕(棺)を担いで参州深溝まで運び、供養したといわれる。
生家は雲仙登山口にあったが、街道沿いに移されて墓石が建てられている。

6.小浜湯太夫

小浜温泉街は崖下に並んでいる。長い石垣があって、その上に見事な門がでーんと構えている。
本多湯太夫屋敷だ。
明治になって島原城が解体された時、本多家が払い下げを受けて屋敷門としたもの。
30cm角の柱は鉄板で巻き、厚さ22㎝の樫板で作られた門扉は、高さ285×幅147cmもある。
飾り金具も立派。
本多家は湯の管理者で歴代湯太夫と称する。

小浜温泉はフロイスの『日本史』にも出てくる。
戦国時代に大村純忠が有馬義直を訪ねて当地に来たり、薩摩の武将も入湯している。
また松倉重政はこの地で急死したという。
それで「豊後湯」の名が残る。

現在小浜には4~50軒の旅館・ホテル・保養所。
があり、年間数十万もの人がやってくる。
中でも足湯は大繁盛。この温泉が広く知られるようになったのは、江戸時代の初めに明(中国)から渡来した入徳師の広めによる。
師は禅僧で、漢方医者であって、小浜の湯が治療に効能があると勧めた。
伝明寺にはその功績をたたえて入徳師翁碑が建てられている。

小浜温泉(ほっとふっと105)

小浜温泉(ほっとふっと105)

シーボルトはその著書『ニッポン』で外国にも紹介している。

「温泉岳の麓、島原の西海岸に接して病を癒す効用のある温泉がある。
小浜といい、ここは満潮時には海水が覆い、岩の底よりわく湯を浴場に導く。
温度はおよそ90度で、色は清く、泉水のように透明」
農民の湯治で賑わっていたが、明治になると外国人も増え、また県道と航路開発により、国内外の客が急増する。
文人墨客も多く訪れ、作品を残す。
1920年に斎藤茂吉が湯治に来ている。
歌人として名が上がっていた茂吉は、秋の5日間を学生と過ごす。

“ここに来て落日を見るを常とせり海の落日も忘れざるべし”茂吉の歌碑が小浜支所横に立ち、そこは夕日広場となる。
一首ひねりたいところである。

斎藤茂吉の歌碑

斎藤茂吉の歌碑

7.金浜めがね橋

国道251号線を南下する。金浜川を渡る。
ここに1846年、岡右衛門がかけた大きな、めがね橋がある。橋長14.5、径間11.5、アーチの高さ4.9mと見事な橋である。
島原半島一の大きさで、長崎のめがね橋群にもひけをとらない。
土地の素封家が社会への還元策として、村人の日常生活や旅人の往来の便利のために架けたのである。
その心意気や素晴らしい。それにしても、岡右衛門のことがよく知られていないのが残念である。

また残念なことがある。
実は今のこの橋は平成のめがね橋で、まったく造り直されたもの。架橋150年たって、確かに傷んではいた。
1922年の島原半島南部地震で、欄干の一部が落ち、地覆石もはげ、要石が2~3㎝落ち込んでいた。
まだまだ大丈夫なはずだったがね。町では昭和60年に文化財に指定して、平成5年に架け替えたのだ。
生まれ変わった橋は御影石やよその石材を使い、機械を用いて美しく造り上げている。
また以前にはなかった階段も取り付けられた。ライトアップもなされ、外観はよくなった。
しかし、地覆石は滑りやすく、階段のけあがりは高く通行には不便である。旧橋を長年支えてきた石は、整備された駐車場の階段などにわずかに残されているのみ。
どんな思いで新めがね橋を眺めているだろうか。
文化財保護のあり方を考えさせられる。

8.北串原

金浜から道は山手へと通じる。
南方へは切り立った崖が続くから道が造れなかったのだ。
1887年にやっと県道(現国道251線)ができた。街道は県道と替わって諏訪の池へとつながる。
ぐんぐんと登っていくと圃場整備された広い畑地となる。1000年ほどの前にある文書に「串山庄20丁」は、この畑地一帯を指すのか。
今日ではジャガイモの大産地となり、年間粗生産額は15億円という。
マルチ栽培の広まりで年2作となり、この地は日本一の生産団地として名が売れている。そして質の良い串山ジャガイモと、消費者に人気がある。

北串原を突き切る県道を進むと諏訪の池へと出る。広さ34haと島原半島一の湖である。
1616年に松倉重政新藩主が築いたという。
ここといい千々石の堤防といい、松倉藩主は地域振興策にも力を入れている。
地形上から見て、大古の火口を利用したものであろう。その後、新池を造り、また数回にわたって土手を築き直したり、井樋を改修している。
標高200mの丘陵地上に大きな水ガメを造りだし、農業生産を上げようと努めた農民たちに敬服だ。

今、湖岸はリゾート地で賑わっている。
昭和47年雲仙国民休暇村に指定され、キャンプ場などが整備された。
広い湖面と周辺部は鳥獣保護区であり、小鳥の楽園である。
バードウオッチングにもってこい。夏よし冬よしのレジャーランド。

(次回は南串山から加津佐まで)

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次のぶらっとさらく」放送中!

松尾先生

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