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島原半島観世音三十三霊場巡り3「十三番霊場~十八番霊場(南島原市有家町山川名~南有馬町浦田名)」

〈 初めに 般若心経 解説① 〉

多くの人が心に不安を抱いている現在、心や精神に不調をきたしているようだ。
心のより所を求めている人が増えているそうで、仏教への関心も高まっているようだ。
人気が高いのが『般若心経』。
262文字で、数分で唱えられて、気楽にいつでもどこでもできて、気分も落ち着く。
精神的にも効果あり!!そこで4回にわたってそのお話をしよう。
まず、冒頭の文章を紹介します。
一緒に唱えましょう。
後で解釈をします。
観自在菩薩/行深般若波羅蜜多時/照見五蘊皆空/度一切苦厄/

十三番霊場「円通庵観音」(有家町山川名上町)

旧有家駅前に9時過ぎ集合して歩き始める。
シマテツ南目線が廃止になってここまでたどり着くのも大変。
改めて鉄道のありがたさを知る。
この駅前直線道路は、旧口之津鉄道が開通した大正末に、駅と町中心部をつなぐために開かれたものだ。
道の両側には桜並木もあって、有家の玄関を飾るにふさわしい道であった。
今ではその面影もない。
1.5キロ歩いたら永昌寺に着く。
その昔、ここは円通庵といっていた。
島原の乱後、高力忠房により開かれたもの。
高力氏は乱後の領内復旧と生活の安定に力を注いだ。
特に各地に神社仏閣を建立して人心安寧に努めた。
その一つがここであろう。
その後何度か荒廃した時期があったようだが、嘉永五(1852)年、杉本慈教上人が島原・護国寺から移り住んで、永昌寺と称した。
しかし観音堂は旧名のまま円通庵観音と呼んでいる。
山門の左手に立派な観音堂が立つ。
2間×2間半あって、白衣観音像が鎮座し、脇には鬼子母神も祭られている。
いろんな観音様を参拝してきたが、白衣観音は常に蓮花の中にいらっしゃって、やさしいお姿に造像されている。
子授け、安産、育児のなどの祈願に広く信仰されている。
鬼子母神も同様に安産・育児の神として信仰されている。
鬼子母神は千人の子を持っていたが、性質邪悪で、常に他人の子どもを殺して食べたため、仏はこれを教化しようとその最愛の末子、愛奴を隠した。
仏は悲嘆にくれる鬼子母を戒めて子を返し、吉祥果(ザクロ=人肉に似た味がするといわれる)を与え、仏に帰依させたという。
それで手にザクロを持つ天女となっている。
観音堂前に立派な石造の五重塔が立っている。
日蓮上人五五〇遠忌報恩塔で、隈田村庄屋小嶺蔵右衛門の建立である。
永昌寺は日蓮宗の寺であった。

 

十四番霊場「尾崎観音」(西有家町里坊名尾崎)

さらに1.5キロ歩いたら、尾崎集落裏山にめざす観音堂があった。
このあたりを里坊といい、有家川が造りだした沖積平野の山手側に造られた集落地帯である。
古くから開かれた地であろう。
その地にいつの頃からか観音様が祭られてきた。
祭られている観音像は十一面観音といわれるが、石造り観音様で、そのお姿はわからない。
観音様は厨子の中にいらっしゃる。
観音堂は石厨子の観音様を取り囲むように建てられている。
この厨子は文政五(1822)年に造られたもので、その当時はこの中に観音様を祭っていたのだが、後世、御堂を建てて取り込んだ。
裏手に回ると、世話人の名が刻まれているのが見える。
その中に、たら、つる、ちよ、さめなどと女性名がある。
江戸時代に女性の名が出るのは珍しい。
この厨子には、堂々と名前を彫り込ませた隈田女の力が示されている。
観音様信仰は女性によって保たれているのだな。
石灯籠には安永七(1778)年奉納と刻まれている。
松平忠恕が再び宇都宮から移封されて4年目のことである。
この観音堂の古さが偲ばれる。

十五番霊場「龍泉寺観音」(西有家町須川名)

また2キロほど歩いて西有家町の町中へと入った。
この高台に龍泉寺が建つ。
この寺は、元禄二(1689)年松平忠房によって、島原・晴雲寺の末寺として開かれたもの。
町中から長い石段を上って御堂へ進む。
その途中右手に観音堂は立っている。
祭られている観音様は十一面観音。
庶民に広く親しまれているお方で、十一のお顔を持ち、多くの人にあまねく救いの目をかけてくださる。
十種の勝利(病気をしない、衣食住に不自由しない、火難、水難などを免れるなど)と四種の果報(地獄に堕ちない、極楽に行けるなど)があると説かれている。
広い境内には羅漢堂もあって、16人の悟りを開いた聖人が並んでいらっしゃる。
みんな色付けされた像だが、長い年月を経ているのでか剥離が進んでいるようだ。
210年も昔、島原大変時はこの石段まで津波が打ち寄せたという。
それでこのあたり一帯はほぼ全滅。
この寺では施餓鬼会を行い、流死者供養塔を須川の旧海岸に建てた。
大正十一(1922)年の南島原地震の時には、島原大変の再来ではないかと地区の人は心配して、深夜にもかかわらずこの境内へ避難したそうだ。
災害の教訓がちゃんと継承されている。

十六番霊場「竹ノ谷観音」(西有家町龍石名竹の谷)

目指す竹の谷観音までは約5キロ。
歩き巡礼では、このくらいはへっちゃらだいと、寒風に向かってみんな黙々と歩く。
田中集落で島原街道と分かれて山手へ入る。
竹の谷集落のはずれに観音堂はあった。
なんと石造りの鳥居が立っていて、そこには「観音神社」と額が掲げられている。
観音様が神様になっている。
明治初年の神仏分離政策の表れなのだ。
明治になるまで、神仏混淆が普通で、神仏に違いはなかった。
しかし、時の政府は神道国教政策をとり、仏教を抑圧、排斥した。
それで「一村1神社」を強行したこともあって、各地の観音堂も地区の神社と名を変えざるを得なかった。
この観音堂もそうで、この鳥居には明治三十一年・氏子中建立と刻まれている。
堂内にはこれまた赤鳥居があって、千手観音と額には書かれている。
千手観音様を祭っていたが焼失したので、新たに京都から清水観音を勧請したそうだ。
昔は、この裏山から石清水が湧いていて、修行の場となっていたそうだが、今ではその面影もない。
江戸時代に始まったこの観世音三十三霊場も、長い年月の内に変わったところも多い。
特に戦後の急速な社会の発展で、その成立地盤まで変わってしまったようだ。

 

十七番霊場「北谷観音」(北有馬町田平名北谷)

さらに3キロ近く歩いて北有馬町に入った。
とうとうみぞれも降ってきた。
これではどうなることやと、辛抱してスーパーマーケットまで足を急ぐ。
そこで昼食と休憩だ。
腹ごしらえと暖を取って十七番霊場へ進む。
大手川の右岸のだんだら坂を上る。
幸いなことに町道が整備されていて歩きやすいが、この坂はどこまで続くのか。
半時間ほど歩くと、集落のはずれの岡の上に着き、そこには真新しい観音堂が建っている。
ここからの見晴らしはよく、有馬の山々や普賢岳が見える。
静かないい場所に観音様は祭られている。
回りには古い石仏があり、四国八十八番所霊場の仏様もある。
御堂にはこれまた金ぴかの聖観音像が祭られている。
子安観音と聞いていたが違うようだ。
いつの時代に変わったのかな。
化仏をつけた宝冠をかぶり、左手には蓮華を持ち、右手は開いたままのこのお姿は聖観音様だ。
聖観音様は、人々を救済するために種々の身を現す大悲大慈の菩薩で、普通の観音様はこれを指していう。
いろんな苦難除去や現世利益病気平癒、厄よけなど幅広い功徳があるそうだ。
この谷向こうに西田平八十八所霊場がある。
大正五(1916)年、土地の八木さんたちが発起して、弘法大師の徳を慕って巡拝するコースを開かれた。
山林や野原に大師像や八十八霊場の御本尊を刻んだ石仏を安置している。
ここを巡ると、四国八十八霊場巡礼が出来たことになり、お参りする人も多いそうだ。

十八番霊場「浦田観音」(南有馬町浦田名下町)

つぎは最後の霊場、浦田観音を目指す。
今日一番長い距離7キロもある。
幸い日も照ってきた。
岡を下り、原城真下を通り、新しく確定された有馬のセミナリオへ立ち寄る。
ここで有馬氏とキリスト教の関係、特に仏教排斥について考える。
有馬晴信は現実主義者であったようで、領国防衛と経済・文化的な利益を求めて教会と結びつきを深め、キリシタン大名になっていく。
このすぐ近くの原城本丸への石段には墓石などを用い、それを踏みつけて登城するような仕組みになっていた。
しかし、セミナリオの果たした役割は大きい。
禁教時代の信者に希望の火を灯し続けたのだから。
島原街道をたどり、有馬川を渡って南有馬町へ入る。
一時間以上も歩き、ほどよく疲れた時に浦田観音に着く。
早速お参りをと、戸へ手をかけたら開かない。
鍵ががっちりと掛かっていた。
静かな原城三の丸の一角にあるのだから無理なからぬことか。
この観音様はよく名が売れている。
島鉄の駅名にもなっていたし、例祭には市が立つほどだ。
その由来はというと、有馬晴信に若君が生まれた時、母乳不足で心配されたそうな。
その時家臣の一人、山崎飛騨守が観音菩薩の小祠を造り祈願したところ、その願いが叶えられて乳不足も解消したという。
それ以来、母性のお守りとして参拝者が多くなった。
正月17日と6月17日には「千日詣」として特に参拝者が多く、市も立っていた。
島原の乱でここも荒廃したようだが、その後復旧して賑わいを増した。
時の政権に関わりなく、庶民にとって観音様信仰は根強く継承されていくものだ。
観音堂下には、島原の乱の遺跡、甬道(ようどう)がある。
立て籠もる一揆軍攻撃のために、日向(宮崎県)から坑夫を集め、トンネルを掘らせた。
それを知った一揆軍も迎え撃つために穴を掘り、戦闘となった。
作戦は失敗で、この坑口が残された。
島原の乱の生き証人である。
やあ、今日はよく歩く一日であった。
9時から3時半まで20キロあまり歩いたことになる。
しかし疲れは感じない。
観音様に手を合わせ、お経を上げ、いろんなお願い事を申し上げるので、疲れるどころではない。
心豊かに一日が送れるのだ。
ありがたいことです。
合掌。

次回は 島原半島観世音三十三霊場巡り④
「十九番霊場~二十三番霊場(南島原市口之津町東大泊~雲仙市小浜町木指)」

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

 

島原半島観世音三十三霊場巡り 島原半島観世音三十三霊場巡り 2「八番霊場~十二番霊場 (南島原市深江町~有家町原尾名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」
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