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松尾先生の島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」

キリスト教が島原に広まるフランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたキリスト教は、九州西部や東部に浸透していった。
そして1563(永禄6)年には島原半島にも伝わった。
この直前、大村領主純忠は横瀬浦(西海市)をポルトガル人に開放し、領内にキリスト教の布教を許した。
また洗礼を受けてキリシタン大名になっていた。
純忠の兄に当たる有馬義直も、口之津港に教会を建てることを許可すると伝えたら、アルメイダ修道士が来て布教した。
そしてまたたく間にキリスト教が広まっていく。
1567(永禄10)年にはポルトガル船が口之津港に入港し、有馬氏は本格的に南蛮貿易に乗り出した。
1576(天正4)年に義直はキリスト教に改宗し、子の晴信も入信した。
仏教寺院や宿坊を教会側へ寄進し、領内各地に教会が建てられた。
1579(天正7)年、ローマから派遣されたヴァリニャーノ巡察師が口之津にやってきて、宣教師会議を開いた。
ここで今後の布教方針が決められるなど、島原半島はキリスト教の一大中心地となっていく。
この時期島原半島は、領主有馬晴信を始め領民のほとんどがキリスト教信者であり、キリシタン王国のようであった。
それで信者の墓碑が各地に120基余り今も残されている。
南島原市須川のキリシタン墓碑は国の重要文化財である。

1.セミナリヨとコレジヨ

ヴァリニャーノ巡察師が来日して口之津で宣教師会議を開いた。
そこで今後の布教方針が決定され、日本人の聖職者を育成しようとセミナリヨとコレジヨを開く。
1580(天正8)年に有馬のセミナリヨが日野江城下に開校、22人が入学した。
同時に安土にもセミナリヨが開かれた。
翌年府内(大分)のコレジヨが開校する。
その後、加津佐へ移転。
セミナリヨは信者の子どもに初等普通教育と宗教、ラテン語、文学、歴史、美術、音楽などを教育するとともに修道士や伝導士として必要な神学校教育を行おうとするものである。
コレジヨは神学を専門課程とする今の大学と同じようなもので、教会の司祭を育成する高等教育機関であった。
これらの学校では、当時のヨーロッパと同様の教育が行われていて、西欧キリスト教社会の最高水準の教育体制と同一であった。
この学校から遣欧少年使節が出たり、弾圧期も最後まで布教活動を続けた中浦ジュリアン神父たちが生まれたのである。
しかし迫害期の1612(慶長17)年頃に長崎で消滅したようである。
少年使節が当時発明されたばかりの活版印刷機を持ちかえり、加津佐のコレジヨに置かれ、出版を始めた。
「サントス御作業のうち抜書」を出版、その後多くの本が出版された。
そして布教に大きく役立った。
またその頃有家のセミナリョでは銅版画も作製されている。

2.天正遣欧少年使節

「日本でキリスト教がこのように盛んである」と、お礼を申し上げるために4人の少年がローマ教皇のもとへ旅立った。
これが遣欧少年使節である。
ヴァリニャーノ神父は日本人の優秀さを理解していたので、日本人の素晴らしさをヨーロッパ人に知らせ、同時に日本人に直接西洋文明の発達、特にキリスト教の盛んな様子を理解させたいと思った。
そこでセミナリヨで学んでいる少年を選んで、ローマへ送る使節を計画した。
大友宗麟の遠縁にあたる日向の伊東マンショ、有馬鎮純(晴信)の従弟で大村純忠の甥にあたる千々石ミゲルの二人を正使に、大村の中浦ジュリアンと原マルティノを加えて4人を使者とした。
1582(天正10)年2月20日、長崎港を出帆、1585年ポルトガルに着く。
3月23日ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見して、有馬・大村・大友3キリシタン大名の書状を差上げた。
4人はその役目を立派に果たしたのである。
そして1年かけてヨーロッパ各都市を訪問して大歓迎を受け、1586年出発、1590(天正18)年7月28日長崎に到着した。
その後4人はイエズス会員となり活躍するが、千々石ミゲル棄教する。
残りの3人はその後も聖職者として弾圧期のキリスト教を支えていった。
千々石ミゲルのことは詳しく分かっていない。
ミゲルは洗礼名で、1569(永禄12)年に生まれたらしい。
有馬家11代領主晴純の子、直員は千々石家を継ぎ、ミゲルはその子である。
帰国後は聖職者の道を進むが、教会を離れて大村領へ行く。
そしてその名は歴史から消える。

3.沖田畷の合戦

佐賀を根拠に勢力を伸ばしていた竜造寺隆信は、島原半島も手に入れようと有馬鎮純(晴信)を攻めるが、逆に討ち取られる。
それで地名をとって沖田畷の合戦という。
有馬氏はかつて20万石相当の領地をもち、肥前国守護職ともなる。
しかし佐賀に勢力を伸ばした竜造寺氏に追われて、1578(天正6)年には島原半島まで押し込まれてしまう。
そしてその軍門に下らざるを得ない。
晴信は勢力挽回のために教会勢力と結んでキリシタン大名となったり、薩摩の島津氏と連合した。
1584(天正12)年、竜造寺隆信は2万5000(5万ともいう)の大軍を率いて神代城に入城した。
一方、援軍の島津家久軍5000は須川に上陸。
有馬軍3000と連合して島原・森岳に本陣を置いた。
3月24日早朝から沖田一帯で激戦、水田が血の池となる。
大将の隆信が討たれたので、龍造寺軍は総崩れとなって佐賀へ引き揚げた。
戦国の、九州の歴史を塗り変えた合戦であった。
この結果有馬氏は龍造寺軍を打ち破り、島原の独立を保つことが出来た。
豊臣秀吉から島原領4万石を安堵され、朝鮮へも7年にわたり出兵する。
関ケ原合戦には不参加だったが、子の直純が宇土城(小西行長の居城)を攻撃し、徳川家康からも同様に安堵されて、近世大名として生き抜くことが出来た。
1609(慶長14)年にはポルトガル船を長崎沖で焼き討ちして教会側の不評をかう。
岡本大八事件に係わり所領を没収されて甲斐国(山梨県)に流され、46歳でその波乱の人生を終わる。

4.松倉重政

その出自ははっきりしないが、「藩翰譜」によると越中国下新川郡松倉の出で、室町時代後期に大和国添上郡横田に住み着く。
別説では、先祖は横田物部といい大和の朝廷の護衛する部族であったという。
いずれにしても室町時代に筒井氏の勢力下に入り、定次に仕えて伊賀梁瀬8000石を領していた。
松倉重政は関ヶ原合戦で軍功を立て、筒井氏が没落した後は徳川家康に取立てられて大和国二見郡五条1万石を領有する。
さらに大坂の陣でも働きが目覚ましく1616(元和2)年に肥前国高来郡4万石の大名となった。
島原の新領主になった松倉豊後守重政は、戦国大名の意気込みをもって乗り込み、大規模な築城事業を始めた。
同時に統治の根拠地として城下町の整備する。
この時将軍から特命を受けてキリスト教の弾圧に力を注ぐ。
子の勝家は島原の乱の責任を問われて所領を没収され、美作国津山藩預かりとなり斬首される。
勝家の弟の重利の娘・龍野が5代将軍綱吉の息女鶴姫の侍女の傳育に任ぜられたので、重政の孫の小幡重勝を養子にして松倉家三代目を名乗らせ、同家は継続する。

5.島原城築城

前領主・有馬直純が延岡(宮崎県)に転封されると、その後へ松倉重政が五条(奈良県)から入る。
この時、日野江・原両城を捨て、統治の根拠地として新しく居城を島原に置き、同時に島原城下町も整備した。
城外郭は東西350m、南北1200mあって、周囲に3800mの櫓台つきの塀を巡らしていた。
内郭は15mの深い堀と石垣に囲まれ、南に片寄って本丸、その北隣に二の丸、さらに三の丸を配置。
本丸には5層の天守閣が高さ32mとそびえ、3層櫓3ヶ所、2層櫓7ヶ所が置かれた。
三の丸には御殿を置き、藩主の居住地と藩庁があった。
城内に上級武士屋敷街、城外西側に下級武士屋敷街があった。
同時に島原城下町も築造し、古町、新町、三会町が置かれた。
それぞれ中村孫右衛門、隈部杢左衛門、姉川伊兵衛を別当として町人を管理させた。
その下に4~5人の乙名がいた。
1707(宝永4)年の調査で、家屋数1213軒、人口7971(男4033、女3938)人であった。
今でも中村家は存続し、その屋敷門が残る。
木造瓦葺きで入母屋造りの堂々とした門構えは、間口10.1m、奥行き3.1m、欅材の門扉は幅2.9mと、島原町人の勢力を示している。

6.禁教令

1587(天正15)年、豊臣秀吉は「きりしたん禁制定書」を出して宣教師の追放を命ずる。
しかしキリシタンの活動は停止されることはなく、島原地方ではむしろ盛んとなり、領民7万5000人が信者であった。
やがて徳川家康の手で禁教の完全実行へと発展する。
1612(慶長17)年幕府は「条条」を発して「伴天連門と御禁制なり、もし違背の族あらば忽ちその科を免れるべからざる事」と、すべての人々にキリスト教の禁止を表明した。
ここにキリスト教の禁止は成文化され、法令として諸大名へ発布された。
翌年には「伴天連追放令」を出し全国へ適用した。
筆頭年寄の大久保忠隣を切支丹総奉行に起用した。
将軍の名で出されたこれらの禁教令により、教会の破壊や信徒の改宗が強引に進められ、迫害の嵐が吹きすさぶ。
雲仙火山は霊地としても知られ、巡礼者は火山の噴火口を間近かに見て、その様子から「地獄」と称していた。
灼熱の地面、煮えたぎる湯を地獄に例え、悪者が陥るところと伝えられた。
この地獄がキリスト教弾圧時代に、拷問と処刑場に利用されたのである。
松倉重政が新領主として入封すると、厳しくキリスト教を取り締まった。
1627(寛永4)年以後、地獄責めが始まり、島原半島各地や長崎からも信者が引き立てられた。
地獄の熱湯で棄教を強制し、棄教に応じなければ容赦なく地獄に投げ込んだ。
それで多く信者が殉教した。
この悲惨な様子はヨーロッパにも伝えられ、モンタヌス画「地獄責め図」が残されている。

7.島原の乱

1637(寛永14)年、天下を驚かせた大一揆が島原地方を中心に発生した。
島原の乱である。
島原藩主として松倉勝家(重次)が後を継ぐ頃になると、朱印船貿易も廃止されていくので、貿易に依存する財政を領内の増収策に切り替えざるを得ない。
そこで年貢率を高めた。
またその時期打ち続く天候不順による減収で、過酷な税の取りたてとあいまって、島原半島は飢餓状態に陥っていた。
「有馬家当郡領地の折柄、耶蘇宗門繁昌し、五穀も自ら豊穣なりしが、松倉氏の領所と成りて二十余年、一日片時も安堵の心なく、…」と、領民の不満は高まっていた。
この年10月15日、キリシタン立ち帰りの回文が出され、25日には代官の取り締まりに反発、島原半島南部の村むらで一揆が始まった。
26日には島原城を攻撃するが失敗し、一揆に参加した農民たちは原城跡へと立てこもる。
特に南部地方は村を挙げての参加である。
同じように天草でも一揆が始まり、両者は連合して戦おうと原城跡に集結して篭城体制を取る。
その数2万7000人(3万7000人)。
こうして日本中を大きく動かす島原の乱へと発展していく。
農民たちは村ごとにまとまって暮らし、防衛陣地を分担した。
各村の庄屋衆が談合人となって全体的な世話をしていた。
もともと各村にはキリシタンの組(講)があって、村の共同体の結束とキリシタン信仰の力が一体化して参加農民の士気は非常に高かった。
有馬や小西の旧家臣や浪人衆は評定人となり、軍事面を担当。
戦闘時には農民軍を指揮して先頭に立って戦った。
彼らは天草四郎を総大将に仕立てて一揆のシンボル化し、集まった農民を四郎の旗(陣中旗)のもとに結集させた。
この戦術の巧みさと農民の結集の強さは単なる農民一揆と異なり、一大反乱へと高揚していく。
3ヶ月にわたる農民の反抗も、翌年2月末に全員虐殺されて終わる。


(次回は「第3回 松平氏の統治」)

 

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
また毎週月曜日午後12:05時~、島原のラジオ局、FMしまばらで『島原の歴史』を語っています。

松尾先生

過去の記事はこちら。
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」

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