松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週水曜日 12:05~「松尾卓次の島原歴史探訪」放送中!
記事
6.222016
松尾先生の島原街道アゲイン「第2回 三会~湯江」
はじめに
いよいよ島原街道を一巡りします。まず北目道を歩きます。今回は旧杉谷村から、三会、大三東、そして湯江まで。
そのコースは、二軒茶屋・三会大手原・駅前・洗切・松尾駅前・大三東駅前・東小路・大三東小学校前・勝光寺横・湯江川沿い・
小学校前・温泉屋敷・栗谷川です。皆さんも一度はこのコースを歩いてみませんか。
島原街道(北目道)
大手御門前~上の町~猛島神社前~田町供養塔前~北門交差点~二軒茶屋~三会大手原~駅前~洗切~松尾浜~大三東駅前~東小路~大三東小前~勝光寺前~湯江川沿い~湯江小前~温泉屋敷~栗谷川橋~下高下~多比良小前~土黒川沿い~篠原四つ角~国見中前~神代大門~淡島社下~小路横~鶴亀城址西~長浜~西郷舟津~伊古~大川~大正小跡~古部駅前~道祖崎~田内川~鶴田小前~吾妻駅前~大熊~阿母崎駅前~阿母崎~愛野舟津~愛野駅前~温泉神社下~土居口番所跡~山王神社下
(南目道)
大手御門前~万町~中堀町水頭~白土町~崩山~新山~六本松~安中大下~茶屋松橋~深江原~瀬野追分~諏訪神社裏~深江本町~深江川橋~平之坂~飯野~新川眼鏡橋~三本松~中通~円通寺裏~寺田~堂崎浜~天満宮前~新切~境目~蒲河浜~白崎~専念寺前~有家上町~亀渕橋~天満宮下~翔南高下~引無田~西之坂~龍石~田平春日神社前~橋口~有馬川日野江橋
(西目道)
南有馬常光寺前~天満宮横~町口~下町~露田~古野公園~吉川下潟~山洞~口之津大屋~貝瀬橋~真米~口加高前~野間水~女島横~浜町~東加津佐小横~道原~白坂~路木~英彦山入口~日原~門山~境川橋~北串原~金浜眼鏡橋~木指~南・北本町~北野~山嶺~葛坂峠~千々石木場~高野~舟津~塩屋~千々石峠~首塚~愛野中野(番所跡)
1. 二軒茶屋
ここ二軒茶屋は島原・杉谷両村の境。それで本村から下った道が街道と交わるところで、藩主の参勤行列をお見送り、お出迎えしていた。
「シターイ、シターイ、、、」との声がして、先払いの武士が来る。そのあとに家臣に囲まれた藩主のお駕籠やお馬がしずしずと進む。
「杉谷の庄屋宮崎七郎左衛門、お目見え、、」と、道端に座っている村役の名を呼び上げる。
一同は「ハ、ハーッ」
ここの川に向き合った2軒の茶屋が店開きしていたことから地名となる。旅人の良き休み場であった。
しかし今ではその面影はない。わずかにバス停にその名が残るのみ。
三会村に入り。その村境も今でははっきりしない。沖田扇状地の北はずれ、3本の川があるところから、三江・三会という名が起こったとのこと。
つまり中河川・西川・中野川の下流に広い水田地域が村の始まりとなったのか。その中を国道251号線が通る。
周りは店や自動車販売店・工場やパチンコ屋が切れ目なく続く。国道から離れ、三会駅横から海岸通りへ進む。一変、三会の台地が海まで迫る中を北上する
2.三会馬
三会というと馬。
津吹町には馬頭観音が祭られていて、島原半島33観音霊場の一つとなっている。島原馬は藩政時代から有名で、厩方役所を置いて領内の馬産に力を入れていた。
馬籍があって毎年2月には馬改めをして、領内2千数百頭の馬を管理していた。そして駿馬は留馬として御用馬の候補にしたり、他領への移出を禁じた。
また野放といって温泉山麓の原野に春から夏に放牧し、良馬の育成に努めた。各村でも競って良馬の産出に努め、農家の副業としても重視された。
中でも三会村では盛んで、1823年333頭、1838年には737頭が飼育されていた。それを引き継ぎ、明治になると南高来郡畜産組合ができて、子馬市が開かれてますます盛んとなる。
1919年には三会村から214頭の子馬がセリに出され、郡内の取引の1割を占めた。その値は最高が580円、最低でも91円と、農家の良い現金収入となっていた。
馬頭神社(観音堂)には駿馬の写真や親馬子馬の像などが奉納されていて、賑わったその昔がしのばれる。
3.景花園跡
三会町にも大変供養塔がある。ここ三会往還は海沿いの道で大津波をもろにかぶる。
その波は近くの温泉神社の石段を洗ったといわれるから、周りの家屋はすべて流失したろう。
それで、村では死者が270人出たと記録されている。被害家屋88軒、田畑流失27町と、領内5番目の被害の大きさである。
それで藩命で大型流死者供養塔を建立し、今日も供養祭を営んでいる。
大三東地区との境目近くの台地上に、2千坪の景花園跡がある。忠雄藩主が開いた別邸で、景花園と名付けた。
ここは古代からの埋葬地域と推定される。造成時に4~5個の大石があって、その石を動かしたら銅剣が2本出土したという。
島原鉄道敷設工事中に多数のカメ棺などを出し、その後も60年前の水害復旧時にも勾玉や玉、銅剣などが見つかっている。
しかし本格的な発掘調査がなされないままに遺跡は破壊されてしまった。今でも畑のど真ん中に3.2×2.5mの大石が横たわる。
金洗石とよばれているが、古墳の覆石であろう。強力な豪族の存在が予想される。
4.大三東
地名の読み方は難しい。
こう書いて「オオミサキ」と読む。
その名の始まりは1889年、明治の町村合併時に大野・三之沢・東空閑3村が統合して、各村名の1字を取って大・三・東と称し、生松寺の城台日々来和尚がそう読ませたことによる。
松尾町駅前を通る。
大型町屋が並び、商店、旅館、工場などが集まり、近くの川を利用した港もあって物流の盛んな地であった。それで島原鉄道が開通すると、地域で駅を誘致してこの駅が出来たという。
この台地末端にこんもりとした森が見える。近づくと1本の大楠が根を張り、葉を空いっぱいに茂らせている。
県文化財・松崎の大楠だ。樹周13m、樹齢1000年といわれ、神と祭られている。以前はここに松音寺があったが、移転後も御神木として残る。
大三東駅まで来た。ホーム下まで波が打ち寄せる。ポケッーと有明海を見つめ波音を聞く。ここから山手に道は進む。
境の松川が大川で渡れなかった、上流へと大回り。庄屋元、大三東小学校前を通り、温泉神社下まで進む。
ここに橋が架かり、盲目落橋と名付けられている。寛政の大津波はこのあたりまで打ち寄せたそうだ。
大津波で東空閑で42人、三之沢で123人の流死者が出ている。ところで街道は旧有明町舎下を通っていたというが、大変後地形が変わり境の松川を渡ることが可能となり通行人も増えたのであろう。こちらが本道となったのか。
5.大野原と浜
大野原を通る。
街道沿いに農家が連なる。大昔から農業生産の中心地で、周囲の畑は黒土で覆われている。
文化庁の遺跡地図を広げてみると、どこも遺跡だらけ。町の文化会館地下には「縄文の里」展示館があり、町内各地から出土した土器・石器・カメ棺・装飾品などがいっぱい。
古代から豊かな地であることがよくわかる。
街道から離れるが大野の浜へ行く。
かつてここは白砂青松の地で、海亀が産卵し、浜には石干見(スキ)がつながり回遊魚を採っていた。
松林の広場では馬市が行われていて賑わっていた。しかし今では、浜には大型堤防が続き、海から切り離されてしまった。
全国的にも珍しい「ボラ塚」も海から切り離されてさびしかろう。1879年、松本栄三郎さんのスキにボラの大群が押し寄せ、その量140トン。
数日間かかっても取り終えない。1斤1銭で売り出し、3000円の利益を上げる。地区の人たちはボラのご馳走で数か月潤ったそうだ。
松本さんはボラに感謝してこの供養塔を立てる。
またこの地は、景行天皇の九州征伐時にこちらを見て、あの地は山か島かと大野宿祢を調査に出させたところという。
6.木綿織
歩いているとなんだか様子が違っている。そうだ、数年前までは大きな酒造場があったがすっかり解体されて、母屋と店舗しか残っていない。
名酒「あさひのぼる」が造られていて、年明けの新酒を飲むのが楽しみだったが、もう今はない。島原半島には各村に必ず酒造場があって、うまい地酒が飲まれていた。
時代が変わり、残るのは3~4か所なのか。
町中を通っていると、すっかり建物も新しくなり、イエもマチも変わっていく。有明地区は農家の副業として木綿織の盛んな地であったが、そのハタ織りの音も消えてしまった。
明治中期の『南高来郡町村要覧』に「本村は北目中においてもっとも勤勉な風あり、男女とも夜業をしない者はなく、七島表および筵はその仕事で、別に女は木綿を織り、、、」と書かれている。
それが島原木綿として名を広めていた。
ほとんどの家で女子は10歳ごろからハタ織りを始めて手間賃を稼いでいた。
手織りで2日に1反(2.5㎡)、機械織りで3~4反を織り島原や土地の問屋・呉服店に出して工賃をいただき、次の分の糸を仕入れていた。
昭和の初めごろで、10反織ると1円50銭の収入であったという。それも戦争時代になるとパッタリと止み、戦後は化学繊維の普及で幕を閉じる。
しかし、地域の伝統文化・工芸を継承しようと、島原木綿保存会をつくりがんばっている人がいる。自分で織って仕立てて着るという、心豊かな人がいらっしゃる。
7.庄司屋敷・温泉屋敷
湯江川を渡り湯江小学校に着いた。運動場の横に庄司屋敷跡がある。
1000年も昔に京都仁和寺領荘園がこの一帯にあり、荘官館が築かれていたところか。古い井戸や石垣の一部が残っている。
この井戸は深くて、釣瓶でくみ上げるにも苦労が多かったそうだ。それにしても簡単には掘れない深井戸の存在と、家紋が菊輪に四面と何やら歴史を感じる。
温泉屋敷を通る。
この辺は霊山満明寺の修験道場が開かれていた地か。
奥まったところに薬師堂があるし、山手には定祐の墓という石碑も立つ。山伏の僧房が建ち、日夜修行に励んだことだろう。
今日のその名が残る。霊場温泉山は古くから山岳宗教の中心地であった。その起こりは8世紀はじめと言われ、高野山より古い歴史を持つ。
温泉山は住民の信仰の山であり、修行のお山でもあった。山麓には霊場がみられる。
8.温知小学校跡
境の栗谷川へ下る道に、小さな石柱がある。
温知小学校跡と読める。明治のはじめに各村で小学校が生まれたが、村人の願いがここによく現れている。
温故知新(故きを温ねて新しきを知る)と論語から引用して校名とする村人の高い見識と、願望がわかるわかる。
この時に招かれた人が金森直言先生で、旧島原藩士、勝手方勘定奉行(100石)の家柄であった。
藩校儒学者川島玉瑠に学ぶ。その学識の高さを買われて23歳時に赴任する。その後も湯江村長として村の発展の舵取りとなる。
先生の遺徳をしのんで教え子さんたちが頌徳碑を建立する。
それが今も学校跡に立っている。台石には73人の名前がずらりと刻まれていて、金森先生を取囲む小学校時代のうるわしい姿をほうふつさせる。
素晴らしい先生と教え子さんたちである。
谷間に下って栗谷川の手前に御家清水と石柱が立ち、清水が湧出するところ。
藩主もここで野点をして、一息ついたところか。私もここでおしまい。
橋を渡ると多比良だ、次回は古部までさらこう。
(次回は、多比良から古部まで)
先生の紹介
過去の記事はこちら。
松尾先生の島原街道アゲイン「島原市街地編」
島原の歴史50選「第6回 激動の時代」
島原の歴史50選「第5回 明治の新しい世」
島原の歴史50選「第4回 しまばらの江戸文化」
島原の歴史50選「第3回 松平時代」
島原の歴史50選「第2回 切支丹時代」
島原の歴史50選「第1回 原始・古代・中世」
「人物・島原の歴史シリーズ 第6回 未来へ続く人々」
「人物・島原の歴史シリーズ 第5回 新しい時代を切り開く」