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松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の一三

今回は戦国・江戸・昭和の各時代の島原半島にまつわる歴史クイズを解きながら、「島原の歴史」を探求してみましょう。皆さんも一緒に考えてみてください。では、問題です。

Q 1 島原の乱で農民軍の総大将として戦った人物の名は?

Q 2 坂本龍馬・勝海舟の二人が島原に立ち寄ったのは西暦何年?

Q 3 沖田畷の合戦で命を落とした戦国大名の名は?

Q 4 現在の島原城天守閣が復元されたのは西暦何年?

A 1天草四郎 ― 四郎の旗 ― 南島原市南有馬町 ―

一揆に加わった島原半島南部の14村は、村を挙げての参加でその数2万4000人,
島原半島全人口の6割にもなる,
同じように天草でも一揆が始まり、両者は連合して戦おうと原城跡に集結して篭城体制を取る,
その農民をまとめたのが天草四郎とその陣中旗である,
農民たちは村ごとにまとまって暮らし、防衛陣地を分担した,
各村の庄屋衆が談合人となって全体的な世話をしていた,
もともと各村にはキリシタンの組(講)があって、村という共同体の結束とキリシタン信仰の力が一体化して参加農民の士気は非常に高かった,
有馬や小西の旧家臣や浪人衆は評定人となり、軍事面を担当,
戦闘時には農民軍を指揮して先頭に立って戦った,
彼らは天草四郎を総大将に仕立てて一揆のシンボル化し、集まった農民を四郎の旗(陣中旗)のもとに結集させた,
この戦術の巧みさと農民の結集の強さは単なる農民一揆と異なり、一大反乱へと高揚していく,
この旗は、信仰の中心としてミサ時に掲げられていたものであろう,
108cm四方で、舶来品のリンスに油絵の具で描かれている,
上部に「LOVVADO SEIA O SACTISSIMO SACRAMENTO 」とポルトガル語で書かれ、「いとも尊き秘蹟ほめ尊まれ給え」の意味がある,
中央部は、十字架のあるパン(聖餅)とブドウ酒を入れたグラス(聖杯)を、二人の天使が拝んでいる絵である,
現在、天草キリシタン館に所蔵されている,
3ヶ月にわたる農民の反抗も、翌年2月末全員虐殺されて終わる,

島原市立第一中学校の生徒が作成した四郎の旗(島原城)

 

A 2 1864年 ― 坂本龍馬・勝海舟の来訪 ― 島原市・雲仙市愛野町 ―

二人が島原に立ち寄ったのは1864(元治1)年のこと,
この頃は攘夷運動が高まり、国内政治は混乱していた,
アメリカなど4カ国連合艦隊は下関砲撃の報復を準備するなど、我が国は危機を迎えていた,
幕府の海軍奉行介にあった勝海舟は、連合国側との調停にあたるために坂本龍馬たち神戸海軍操船所の若者を引き連れて長崎へ向かった,
この時、熊本から島原へ渡海した一行は、島原城下本陣・中村孫右衛門宅に一休み、愛津村庄屋深浦家に宿泊した,
一月余り各国領事や提督たちと交渉するが不調に終わり長崎を去る,
帰路も愛津村庄屋宅で一泊し、さらに島原町別当中村家で宿泊して熊本へ渡る,
今でもその跡をたどることが出来る,
上陸し離岸した島原湊の波戸、宿泊した城下本陣の屋敷門、庄屋宅の庭園などなど、その場にたたずむと、幕末を駆け抜けた龍馬はこの島原をどう眺めただろうかと歴史のロマンをかき立てられる。

坂本龍馬の上陸地に立つ案内板(島原市津町)

 

A 3龍造寺隆信 ― 沖田畷の合戦 ― 島原市北門町 ―

佐賀を根拠に勢力を伸ばしていた龍造寺隆信は、島原半島も手に入れようと有馬鎮純(晴信)を攻めるが、逆に討ち取られる,
これをその地名をとって沖田畷の合戦という,
有馬氏はかつて肥前国守護職ともなり、20万石相当の大名であった,
しかし佐賀に勢力を伸ばした龍造寺氏に追われて、1578(天正6)年には島原半島まで押し込まれてしまう,
そしてその軍門に下らざるを得ない,
九州は龍造寺・島津両勢力に二分された状態になり、両者の対立は深まっていく,
1582(天正10)年、両軍が筑後で激突した時に有馬氏は島津氏と結びついた,
1584(天正12)年、龍造寺隆信は2万5000(5万ともいう)の大軍を率いて神代城に入城した,
一方、援軍の島津家久軍5000騎は須川に上陸,
有馬軍3000と連合して島原・森岳に本陣を置いた,
3月24日早朝から沖田の湿地一帯で激戦、水田が血の池となる,
大将の隆信が討たれたので、龍造寺軍は総崩れとなって佐賀へ引き揚げた,
戦国の、九州の歴史を塗り変えた合戦であった,

隆信公の霊を慰めるため建立された二本木神社(島原市北門町)

 

A 41964年 ― 島原城天守閣の復元 ― 島原市城内一丁目 ―

島原城は1624(寛永1)年に造られた,
5層の天守閣を中心に数多くの櫓や城門、城壁を有していた,
その壮麗な城も明治維新後、廃城となり解体されてしまった,
島原の歴史に誇りを抱き地域の活力の源に、また島原出身者の故郷への想いにと島原城復元の動きがずっと以前から続いていた,
東京オリンピック開催を前に、全国的な観光ブームとなった頃、天守閣復元期成同盟が結成された,
その運動が実って1964(昭和39)年4月、新しく天守閣が落成した,
工費の3分の1は島原市民などの寄付によるものである,
お城にかける熱い想いと郷土愛が込められた城造りであった,
天守閣は地下1階地上5階建で、延べ面積1952㎡、高さ33.5mとほぼ原型に近い,
内部はキリシタン史料館など藩政時代の歴史資料や民族資料の展示館となっている,
その後巽櫓(西望記念館)や丑寅櫓(民具資料館)、西の櫓などが復元された,
以来、島原城は年間20数万の人たちが訪れる島原観光のシンボルとなっている,
【島原市「島原城資料館パンフレット」】【島原新聞「昭和39年記事」】

現在の島原城天守閣

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 9:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其一一
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其一一
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の十
松尾卓次の島原の歴史 Q&A 其の九
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