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島原半島観世音三十三霊場巡り5「霊場巡り第二十四番霊場 ~第三十番霊場」

〈初めに 般若心経 解説③〉

般若心経は、正式には「般若波羅蜜多心経」といいます。
「般若」は智慧、すなわち物事の道理を見抜く力という意味です。
「波羅密多」は悟りを得て彼岸(浄土)へ行くこと、「心」は重要な部分という意味を持っています。
つまり、仏教で最も重要な悟りを得る方法の、最も重要な箇所をまとめたものなのです。
般若心経の大元とされる「般若経」は、大乗仏教の経典の中でも特に古い部類で、紀元前後~1世紀ごろにはすでに成立していました。
これをかの玄奘三蔵が西方から中国に持ち帰り、完訳・集大成したのが「大般若波羅蜜多経」です。
しかし、このお経は約600巻というとてつもなく長いものであり、唱えるのは簡単ではありません。
そこで、600巻の内容をわかりやすくまとめたのが般若心経だと考えられています(否定説もあり)。
このような経緯から、般若心経はわずか262文字の中に仏教の真髄が説かれているとされ、「天下第一の経典」とまで呼ばれました。

第二十四番霊場「木場観音」(千々石町木場名白新田)

今回は、千々石町から有明町までの六霊場を回るので車巡礼だ。
いずれの地も島原街道、町の中心部から遠く離れた雲仙山中や山麓にあるから、自動車で回ることにした。
このコースを歩くとなると、2、3日は余計にかかりそう。
まず千々石木場観音から吾妻牛口観音までは20キロで一日かかり、瑞穂岩戸山観音へは往復26キロで一日コース。
多比良駅から烏兎観音、清水観音まで往復すると30キロで、一日で行けるかどうかの距離だ。
これを歩くとなると、真夏にもなって、とてもじゃないが歩き通す自信がない。
それで車を利用しようとの話である。
また時期的にも梅雨に入ることだし、車なら雨でも計画通りに回れるからと、そう決めた。
8時半に島原労金前集合で、マイクロバスで出発。
同行25人と、これまでで一番多い。
雲仙を越え、千々石町木場へ。
白新田集落を歩く。
その裏山・飯岳中腹に、目指す木場観音がある。
ここも参道に鳥居が立っていて、熊野神社と額がかけられている。
長い石段を登る。
これを登るのも修行の一つだと、元気を出す。
3百段上ったら観音堂があって、さらにその上に、岩壁を削り込んだ中に御堂がある。
そこへはまた急な石段が十数段続く。
よつんばいになって登らねばならない。
内部は畳一枚ぐらいの広さで、真っ暗。
石厨子が安置されていて、銅鏡が祭られ、小さな狛犬も置かれている。
早々にお参りして下の観音堂を詣でる。
千手観音を祭っているというが、御本尊はよく分からない。
参詣する人がいないのか、供花や門松も枯れたまま。
無理もない、こんな急な石段を往復しなければならないのだから、土地のご老人には酷か。
若い人にはその信仰が余りないようで、これまた山畑観音と同じように忘れられようとする霊場だ。
よく拝んでおこう。
すっかり汗をかいた。
長い石段の上り下りで、いい修行をした感じである。

 

二十五番霊場「牛口観音」(吾妻町牛口名牛口)

島原半島内で、愛野町だけに三十三観音霊場が置かれていない。
なぜだ。
小さな町であるので、素通りなのか。
吾妻町に入る。
かつての船津・牛口に観音堂がある。
牛口とは海路口、海に続く路から生まれた言葉。
つまり川が運ぶ堆積物が入江を造り、そこが舟溜まりとなったところである。
まさしく山田川河口に出来た集落だ。
しかしその名も忘れ去られるか。
諫早湾干拓事業で、目の前に大きな潮受堤防が築かれ、広い調整池と陸地に変わってしまった。
海がなくなり、湊も埋め立てられてしまった。
ここ有明海深奥はよい漁場であった。
夏はガタすべりで広い干潟に住むムツゴロウを捕り、冬はセッカ(カキ)打ちで浜は賑わっていた。
石干見(スキ)には年中魚が入り、網漁ではボラやスズキなどを揚げていた。
貝引きで赤貝、アサリ、アゲマキなどを取り、潜りでタイラギを手に入れていた。
その豊饒の海、有明海も今では見る影もない。
「板子一枚下は地獄」といわれるように、海で働く人は危険と隣り合わせであった。
それで観音様に手を合わせ、海上安全をお願いしたことであろう。
こうして、ここに観音堂が祭られたのだろう。
牛口集落のど真ん中に建てられている。
ここにも鳥居が立ち、牛口神社と刻まれている。
御堂に入ったら、4、5人の女子がトランプ遊びをしていた。
私たちが手を合わせ、般若心経を読経すると、一緒に声を合わせている。
これには驚いた。
聞いてみたら、おばあちゃんとよくお参りするそうで、般若心経も覚えているとのこと。
すごい!土地にすっかり根付いている牛口の観音様だ。
御本尊は聖観世音像、立派な祭壇に祭られていて神々しい。

二十六番霊場「温泉社観音」(吾妻町栗林名温泉社)

二十六番霊場は山田の温泉神社に合祀されている。
いわずと知れた温泉神社は、温泉(雲仙)にある温泉神社を祭神としている。
麓の4カ所に分霊され、遥拝所が置かれているが、その一つがここである。
大宝元(701)年、行基菩薩は温泉山満明寺を開いた。
温泉神社は、この寺の守護社として祭ったもので、山岳宗教の中心地として繁栄した。
修験者はいざ知らず、一般の人にとっては、深山幽谷の温泉山は登山することも容易でなかった。
その便を考えて、それぞれの登山口の山田、千々石、有家、諫早に分霊した。
時代がたつにつれて、あちこちの村にも満明寺の分院が増えてきた。
『肥前国風土記』によると、ここに高来津座という高い峰・温泉山に居を構える土着神がいたと述べている。
千数百年前から、神のおわす御山として崇められてきた。
それが温泉神社であり、満明寺であった。
以来、東の高野山と並び西の霊山と呼ばれるほどであった。
山田の温泉神社にも観音堂を設けていたようだが、明治の廃仏毀釈で切り離された。
大正8(1919)年の社殿改築でその存在自体も分からなくなったようである。
今ではその痕跡もなく、その名のみが伝わる。
それで今回の参詣も、神前に頭を垂れ、般若心経を上げさせてもらう。

 

二十七番霊場「岩戸山観音」(瑞穂町西郷上木場名)

島原半島三十三霊場中、岩戸山観音とつぎの烏兎観音が一番山奥にある。
海岸線から約13キロもあって、歩くとなると3、4時間はかかろう。
遠足コースである。
事実、学校の遠足で子どもたちは年一回は登っていた。
それが車でスイスイ。
広域農道と開拓道路を通って、西郷地区の開墾地をさらに山手へ向かう。
西郷川の水源で車を降り、杉の大木が並ぶ参道を歩く。
落ち葉を踏みしめる靴音がするだけで、静かだな。
空気もひんやりと、神居ます所だ。
修験道の場所であることが理解できる。
3、4百メートル歩いたらと、目の前に巨大な岩壁がはだかる。
高さ4、50メートルはあろう。
その奥に十数メートルの洞穴があり、御堂が建っている。
手前には拝殿もあり、まだ新しく、近年改修されたばかり。
この中には御本尊の白衣観音像が合祀されているが、よく分からない。
般若心経が洞穴にこだまして、朗々と響く。
本当に、霊地だ。
身も引き締まる思い。
ここ岩戸山にはいくつもの洞穴があって、縄文時代以前からの住居跡ではないかといわれている。
この下の木場地区や近くの百花台には古代遺跡が発見されているので、それらとの関連が考えられる。
帰りに石清水をペットボトルに汲む。
車で水汲みに来ている人も多い。
その水汲み場には、役小角が祭られていた。
修験道の祖である。
なるほどここは俗世界から遠く離れた、いい修行の場であったから。
島原半島の秘境の一つだ。
パワースポットの一つだ。

二十八番霊場「烏兎観音」(国見町八斗木名烏兎)

開拓道路をさらに南下。
狸山の手前から、土黒西川沿いに上流へ走る。
車もうなり出す。
そこから2.7キロ、集落のはずれにあった。
ここも海岸線から15キロも離れていて、とてもじゃないが車でなくては行けないところだ。
杉の大木が何本もある。
かつては杉の巨木で囲まれていたが、時代とともに伐採され、売り払われたりして、今ではずいぶんと明るくなった。
烏兎とは、古代中国に「金烏玉兎」という言葉があって、太陽の中に烏、月の中に兎の像があるところから、太陽と月、日月をあらわすものという。
また、インド神話の太陽と月を神格化して仏教に取り込み、仏教守護の二天、観世音菩薩の変化身である日天子と、聖至菩薩の月天子を指すそうだ。
この烏兎神社の祭神は大山祇命、麻利支天であり、土地の人から武士まで広く信仰されていた。
ここに白衣観音も合祀されているが、かつては赤岩山に祭られていたという。
田代原からさらにひと山登ったところにある岩穴の石仏観音が、ここ八斗木集落に近い場所に移されたそうだ。
それで、ものの本によっては赤岩観音と書かれたのもある。
いつものように参詣後、御堂内や境内を見学する。
古い武術の絵馬がある。
明治初年に島原の武芸者が奉納したもの。
なるほどここは武神として藩政時代から崇拝されていたからね。
この木立に囲まれた、山鳥やサルの声しか聞こえない深山に何日も籠もり、心身の鍛練に努めたのだな。
武道の修行にはもってこいの場所であったろう。
そういうと、戦時中には出征軍人が武運長久を祈り、留守家族が無事帰還を祈願したところでもあったそうだ。
そんな時代が来ないようにと、改めてお願いする。

三十番霊場「清水観音」(有明町戸田名野田)

車で回っているから、順番を一つ飛び越して、三十番清水観音へ進む。
広域農道へ出て、有明町に入ったらすぐ野田集落、その山手にあった。
清水観音という名のように、御堂の前には湧き水があり、小川となって流れている。
この地区の水源に、いつのころからか観音様を祭ったのだろう。
しかし水量が少ないね。
周りが農地として開発され、人家が多くなったせいだろう。
しかし別の説もあって、この地に京都の清水から僧が下向して庵を開いたからともいう。
かつてこの近くに潮音寺などがあり、ずっと下の方には温泉屋敷という集落もあるので、温泉山満明寺関係の僧たちの居住地だったろう。
修験者が住み着いたのだろう。
御堂には鍵がかかり、供花や供物は上がり框に置かれたまま。
しかしお賽銭は、ガラス戸の横に小窓が開けられていて、投げ入れるようになっている。
毎日お参りする人がもういらっしゃらないのか。
寂しいね。
ガラス越しに覗くと、木製厨子の中に古い金銅仏が二体見える。
さらに目をこらしてみると、聖観世音と十一面観世音のようだ。
御本尊は聖観世音様であるが、あと一体いらっしゃるとはね。
いずれも町の文化財に指定されている。
相当時代もののようである。
脇には木製の天狗像もある。
是非一度、間近で拝観したいものだ。
近くは小公園になっていて、桜が植えられたり、句碑が建てられたりと、地区のよいリクレーションの場となっている。
木陰でしばらく休もう。

(次回は、二十九番霊場・川原田観音~三十三番霊場・江里観音)

先生の紹介

松尾先生松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
※FMしまばら(88.4MHz) 毎週金曜日 10:30~「乗って島原鉄道~島鉄沿線歴史の旅~」放送中!

過去の記事はこちら。

島原半島観世音三十三霊場巡り4「十九番霊場~二十三番霊場」

島原半島観世音三十三霊場巡り3「十三番霊場~十八番霊場(南島原市有家町山川名~南有馬町浦田名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 2「八番霊場~十二番霊場 (南島原市深江町~有家町原尾名)」
島原半島観世音三十三霊場巡り 1「一番霊場~七番霊場(島原市内)」
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