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人物・島原の歴史シリーズ 「第5回 新しい時代を切り開く」

多彩な明治の人たち

明治維新となり社会の仕組みが一変する。
それまで抑圧されていた庶民が活発に動き出す。
明治3(1870)年に各町村の別当・庄屋制が廃止、5年には新しい行政区が設定される。
町人や農民にも名字が許され、田畑勝手作や土地永代売買禁止が解除されるなど、封建支配から解き放される。
明治12年の郡区町村編制法により、島原半島は南高来郡にまとめられた。
各町村に役場が、島原町には郡役所が置かれ、2町28村にまとめられた。
この時期、島原半島は石高4万石、領民12万8千人、士卒族6千人がいた。
経済活動が自由になると、町や村が栄え、人口も増えていく。
豊穣の地で恵まれた気候の島原半島は多くの農作物を作り出した。
砂糖の生産が盛んになり、葉タバコが東京でも好評、藩政時代から続く島原馬はますますその名を高める。
新しく養蚕業も発達する。
こうして各地に「グベジャドン」と呼ばれる素封家が生まれ、いろんな面で島原地方を導いた。
島原地方は日本の最西端であるが、同時に外国に近いところでもある。
明治以降、強く海外と結びつく。
ファーストジャパニーズとなる人も現れた。
その進取の気はすばらしい。
もちろん、島原の地に産業・文化の発展に尽力した人も多い。

 

1.勤皇の志士・丸山作楽(1840~1899)と4志士

島原の志士として活躍した丸山作楽は鉄砲町に私塾・神習処を開き、皇国に道を熱心に説いていた。
若手武士だけでなく町人や農民も集まる。
江戸詰めの貧乏武士に生まれた丸山は16歳で、仲間と謀って尊皇に献身することを誓う。
次第に同志も増え、各地で活動する。
1863年島原在住を命じられ、神習処を開いてまだ果たせぬ夢を語り、白昼提灯を付けて市街をカッポし、「世の中は暗い暗い。
朝廷に政治を返さねば」との話も伝わっている。
しかし過激な言動によって1866年には先魁の獄に入れられ、明治維新を獄中で迎える。
この時期に保母健、尾崎涛五郎は大和天誅組に加わって吉野の山中で捕えられ獄死する。
梅村真守と伊藤益荒は水戸天狗党争乱に参加して憤死する。
また中村端平ら4人は中老・松坂丈右衛門を暗殺するなど、島原藩の穏健思想に物足らず直接行動に走るのである。
島原藩は譜代大名だから、多分に佐幕派であり、西国諸藩が討幕の動きを強める中でその動きは鈍い。
さらに藩主の夭折が続き、混乱の中で明治維新を迎える。
なお、丸山作楽は新政府の高官となり、後には官選貴族院議員となる。

 

2.島原医学界を導く市川泰朴(1814~1883)

御殿医市川玄禎の子として生まれ、17歳で父を失う。
兄弟9人で清貧の中で暮らす。
江戸へ上り小篠玄貞に医学を学び、帰国して開業する。
しかし漢方では物足らず再度上京してシーボルトに学んだ戸塚静海に師事して蘭学医学を修業。
島原でも名声を高める。
「医はいやしくも職業や金儲けのためにあってはならない」という言葉が伝えられている。
藩校済衆館教授として賀来佐之を招き、人体解剖を実施する。
1843(天保14)年今村刑場で処刑された男性を引き取り解剖、この時御殿医だけでなく町村医も集め、それぞれ役割を決めて取り掛かり、その指揮を執る。
この解剖図は島原城に展示されていて、解剖本文とその記録や14葉の解剖部位図を見ることができる。
その正確さと実証的な医学研究に泰朴たちの熱意を感じる。
その後医師本席となり、御殿医と領内医師の指導的立場で、幕末には種痘法を学んで領内に広めて天然痘を撲滅を図る。
明治維新後に旧藩校が廃止されると島原にも病院が必要と奔走、今日の医師会の元をつくる。

 

3.カナダ移民第一号・永野万蔵 (1855~1924)

口之津は有明海の出入り口にあるから昔から港町として栄えた。
明治以降も貿易港として、対岸の三池炭の輸出港として栄える。
明治となり自由化進むと三井会社はアジア各地に石炭を輸出。
1896年貿易港に指定され、最盛期には年間92万トンの石炭が輸出される。
この港町に生まれたのが永野万蔵で、18歳の時からイギリス船に乗り込み、シャンハイ、ホンコン、ボンベイなど各地に渡った。
1879年、ニューウエストミンスターに上陸して住み着く。
これが日本人のカナダ移民の始めとなる。
サケ獲り漁業や港湾人夫として働き、元手を稼いでシアトルで雑貨店を開く。
さらにレストランやホテルなど手広く営業する。
塩サケの製造・輸出でさらに利益を上げ、それでカナダ大尽と呼ばれた。
しかし第一次世界大戦後の世界恐慌時に自宅兼事務所を火災で失う。
またスペイン風邪におかされて、失意の中に帰国。
口之津で養生するが叶わず70歳の生涯を終わる。
バンクーバー市郊外の高峰にマウントナガノマンゾウと名付けられた山がある。
「マンゾウは日本人開拓者の草分けで、カナダ西部開拓史にその名を刻まれるべきである」

 

4.お札まで発行した島田元太郎 (1870~1945)

旧土黒村出身の島田元太郎は15歳でロシアに渡り、1897年にニコラエフスクで島田商会を開く。
その後、事業を拡大させて年商2700ルーブルを上げる。
島田札という同社発行の商品券はルーブルよりも信用が高かったという。
藩政時代は宗門改めなどが厳しく、離村はままならぬ。
明治の御一新で自由となると、仕事を求めて海外へと出かける人が多かった。
その一人が元太郎である。
最初は長崎でロシア人のボーイとして働くが、主人の帰国に同行して新天地で働く。
ニコラエフスクはアムール川河口にあって、沿海州やサハリンとの物流の中心地である。
この地に目をつけて、雑貨販売や鉄工業・造船、金鉱開発、銀行・金融業など今日の総合商社にあたるような経営に努める。
シベリアの産業開発や日・ロ貿易に大きな役割を果たす。
しかしロシア革命が起り、パルチザン活動のために1920年、当地の日本人が虐殺される出来事(尼港事件)が発生。
島田商会も壊滅的な打撃を受ける。
この時島原半島の出身者が65人も死亡したから、関係の深かった地元でも大問題となる。
国見町土黒の光泉寺にはその供養塔が建てられ、その悲劇を伝えている。
翌年再開するが、ソビエト政権の成立で撤退せざるを得なくなる。
すべてを失って、さらに敗戦の混乱期に朝鮮のピョンヤンで波乱の一生を終わる。

 

5.自ら鉄道狂といった植木元太郎 (1857~1942)

「ピー!カ ッ タ ン・コ ッ ト ン・カ ッ タ ン・コ ッ ト ン・・・ 」1911年6月22日、島原半島に初めて汽車が走る。
最初は諫早・愛野間で、2年後には島原湊まで42キロが全通した。
島原半島の人々や町村に計り知れない恩恵をもたらし、島原の文明開化が始まった。
このおおもとになったのが1906年の丸山作楽ら在京旧藩士の出した「島原鉄道敷設趣意書」で、「物資の集散地である島原湊から本土へ、石炭輸出港の口之津、全国無比の温泉・小浜を結ぶ3本の鉄道を建設し・・・」と発表した。
5年後にはその実現を目指して、島原鉄道創立総会が開かれ、植木元太郎を代表者に選んだ。
植木社長は旧多比良村に生まれた。
早くから家業を継いで、酒造業や養蚕・製糸業など地場産業の振興に尽くした。
それで推されて県会議員や国会議員となり、政界でも活躍した。
そして鉄道敷設を思い立ち、各地を訪れて熱っぽく開業を訴えた。
自ら「鉄道狂」といい、文字通り機関車となって走り回る。
その姿は霊丘公園の植木元太郎寿像に残る。
その後レールは千々石・小浜、また加津佐へと延びる。
この時の機関車が日本最初の機関車一号で、島原でも一号機関車であった。
国の重要文化財に指定されて、さいたま市の鉄道博物館に保存展示されている。
車体には栄光のプレートナンバー〈1〉と共に、「惜別感無量 昭和5年6月為記念 島鉄社長植木元太郎識」のペナントが輝いている。
その島原鉄道が100年を迎える年に南目線が廃線となる。
「嗚呼!」嘆きの言葉しかない。

 

6.島原鉄道を支えた原口要(1851~1927)

原口要博士は旧西郷村の出身で、島原藩士原口家の養子となる。
幕府の貢進生に選ばれて大学南校に入学。
1875年には文部省第一回留学生となりアメリカへ渡る。
卒業後、ペンシルバニア鉄道会社の技師となる。
「我が国のペリー提督が日本へ行ったときに生まれた日本人が鉄道工事技術を教えるとは、日本の進歩は実に恐るべき」と当地で報道される。
帰国後は、東京府技術長、鉄道庁へ移り全国2,000マイルの鉄道を設計敷設した。
1890年には最初の工学博士となる。
この重鎮が島原鉄道を援助し顧問となる。
部下で渋川主一郎技師は敷設予定地の測量と工事概算費を出す。
早速、これに基づいて島原鉄道の株式募集が始まる。
総額90万円(収支概算書収入11万円余、支出5万円余、差引純益5万円余)資本金80万円に対する年利率100円につき6円80銭と算出している。
郷土を去った者であるが、古里島原へのご奉仕というその精神がありがたい。

 

7.軍神・橘周太中佐(1864~1914)

「遼陽城頭夜は闡けて有明月の影すごく霧立ちこむる高梁の・・・」と遼陽城頭の歌を歌える人はもう少なかろう。
そう、郷土が生んだ軍神橘周太中佐の歌なのだ。
明治政府は富国強兵政策を進め、外国へも勢力を進めようとした。
そこで朝鮮や満州(中国東北区)に目をつけ、同様にそこを狙っているロシアとの間に戦争となる。
それが日露戦争で1904年に始まる。
両軍は満州に大軍を送り、激戦が1年7か月も続く。
中でも開戦当初から三度にわたって行われた旅順攻撃は3万7千もの死傷者を出した。
さらに遼陽会戦では2万4千人、沙河で2万、奉天で3万と犠牲が大きかった。
これは大砲や銃主体の戦闘でなく、肉弾戦という兵士の突撃していく戦法をとったので、痛ましい戦いとなった。
この遼陽会戦で千々石出身の橘周太少佐(後で中佐)が戦死する。
その壮烈な戦死は大々的に報道されて後では軍神として称えられた。
この戦争で全国から多くの若者が招集されてその数110万人。
島原地方でも多数出征したが、127名の若者が帰らぬ人となった。
この戦争は良きにつれ、悪しきにつれて大きな影響を与えた。
昭和15年に郷土の武人を称えようと、県知事を会長に橘神社創建奉賛会がつくられて、全国からの浄財や地元の労力奉仕などによって神域5千坪の大社・橘神社が生まれた。

(次回は「未来へ継ぐ」)

 

一号機関車 橘中佐像 市川泰朴

先生の紹介

松尾先生は昭和10(1935)年島原市生まれ。
島原城資料館専門員、島原文化財保護委員会会長。
『島原の歴史については松尾先生に聞け』と言われる島原の生き字引的存在。
著書に『おはなし 島原の歴史』『島原街道を行く』『長崎街道を行く』など。
また毎週月曜日午後12:05時~、島原のラジオ局、FMしまばらで『島原の歴史』を語っています。

松尾先生

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