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OPINION「長崎県立島原高等学校教諭 寺井邦久」

島原高校に赴任した年の1990年(平成2)11月17日に雲仙普賢岳の噴火災害に遭遇しました。
これは、私にとってまさに運命の出会いともいうべき出来事でしたね。
大学院で専攻し研究していたのが火山地質学。
それも火山学の授業で大学時代から“火砕流”を専門に学んでいたからです。
普賢岳の噴火と同時に毎日、職員室から外を眺めて山の観察を始めましたが、特に翌年5月から現れ始めた溶岩ドームの成長については職員室だけでなく、市内の柏野や深江など5つの地点から終息までの5年間にわたって毎日銀塩写真で定点観測(撮影)を続け動画にしました。

これは世界でも初めての山体成長の動画記録で貴重な火山噴火の記録として専門家の間でも評価されています。
当時は今のように操作も簡単で便利な“デジカメ”などもなく手間も経費も結構かかりましたねえ。
専門家としての使命とプライドがあったからこそ続けられたんだと思います。

雲仙普賢岳の噴火以降、その活動はますます激しくなり最終的に6年間も続きましたが、その間に我々が大きな被害を蒙ったのは承知のとおりです。
特に火砕流についてはこの雲仙普賢岳の噴火災害で我々が初めて耳にした用語でもありましたが、当時は住民がパニックにならないよう火山専門家の間でもこの用語の扱いには随分気を遣っていたんですよ。

昨年9月に発生した御嶽山の噴火や最近の口永良部島の噴火など相次ぐ火山の噴火で今でこそよく使われる用語にもなりましたが、雲仙普賢岳の噴火時までには日本の火山研究者の間でも実際に火砕流を見たことがある人は僅か3人くらいだったとも言われています。

特に九州では阿蘇山が過去に4回も大噴火を起こしています。
中でも7400年前鹿児島県鬼界カルデラの大噴火にともなう火砕流では九州から当時の縄文人が消えてしまったという記録も残っています。
全国の耳目を集めた雲仙普賢岳の噴火災害ですが、当時は忙しい九大の太田先生に代わって講演を行ったこともありましたね。

また、当時島高では実際に火砕流の避難訓練まで行いましたね。

話は変わりますが、火山研究の私が気象予報士の資格を持っていることは少し珍しいかも知れません。
休日などには今も良く気象やお天気についての講演も行っていますが、実はこれも普賢岳噴火災害時に高校の生徒達のために取ったものなんですよ。

島原市内には島高も含めて計4つの高校がありますが、半島の“南目”地域から通学していた生徒が約1,000人もいて水無川などで土石流が発生すると通学ができないのです。
小浜周りのバスを確保するにしても20台が必要という。
一回でその費用だけでも100万円もかかるのです。

そのため降雨にともなう土石流の発生を事前に予知することができればこの対応もやりやすいので、必死に勉強して第1回目の気象予報士試験に合格したのです。

噴火当時は市民の皆様も良くご承知のように本当に大変な思いの日々が続いたのですが、今、振り返ってみると当時の我々の苦しかった経験や行動が、阪神淡路大震災や東日本大震災を始め現在の国の防災対策や避難、啓蒙活動などにすごく役に立っているのです。
同時に、結果的にはあの噴火災害は学術的にもいわば世界の実験場ともなったのです。

例えば、世界で初めての導流堤の無人化施行や自衛隊の監視・救助訓練など…、すべてが今に活かされているのです。

私自身は現在も休日などを利用して老人会から子ども会まで地元の方たちに、かつて私自身も5年間事務局に出向していたジオパークや気象についての講演活動を行っています。
なかでも子供たちはいつも目を輝かせて私の話を真摯に受け止め良く実行もしてくれます。
今後も出来る限りこのような活動は続けていきたいと思っています。

ジオパークも同様なのですが、島原半島の貴重な経験を今後に活かすべく半島の3市も一丸となって、より一層前向きに取り組んでいただきたいと心から願っています。

寺井邦久(てらい・くにひさ)

プロフィール
1956年、長崎市生まれ。
県立長崎北高校卒業後は熊本大学理学部に進学、同大学院理学研究科地学専攻修了(火山地質学)。
1982年、長崎中学校の理科教諭となり長崎水害を経験。
1990年に赴任した島原高校では普賢岳の噴火に遭遇し予知・防災活動でも活躍した。
1995年に第1回気象予報士試験に合格。
2005年から県教育センターの主任指導主事を務めるが、その間の2009年から5年間は島原半島世界ジオパーク推進協議会でジオパークの普及にも貢献した。

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