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元気企業『ザ・マーキーズ/株式会社ウエディング石川』

“おもてなしの心”で一歩先行くウエディングをプロデュース

1887(明治20)年、石川屋旅館として県内で初めて旅館業の営業免許を受けた。
幾度かの戦火や火災などの災禍を逃れ、「旅人宿(りょにんやど)営業免許証・第一号」の貴重な証書が今も大切に残る。
創業者は石川マキさん。

以降、歴代三代目まで女性の経営者が続くが母堂の跡を継ぎ4代目社長に就任したのが現取締役会長の石川嘉則氏。
現社長の石川景士氏は5代目にあたる。
ちなみに会社のコンセプトである“マーキーズ”とは昨年、創業者石川マキさんの100回忌を機に制定されたものだ。

時代の先行く取組みを実践

歴代、旅館業を営んできた同社の中興の祖ともいうべき石川会長が高校を卒業したのが昭和33年、1年間家の農業を手伝ったあと小倉(北九州市)で料理を1年間修業し調理師免許を取得した。
「当時は旅館といっても5部屋くらいのこじんまりしたもので、その面倒をみるのは女の仕事、男は畑という時代だったんですよ」と往時を懐かしむ。

調理師免許を取ったあとは「さらに1ヶ月間、無給で長崎の四海楼で現場も体験しました」(石川会長)。
これが石川屋旅館の発展の糸口となった。

帰郷後は早速、当時旅館ではまだ珍しかった食堂を始める。
これが当たった。
「お盆や年末年始の家庭の繁忙時には出前を行ったり、また当時近くにあった24時間稼働の工場にも毎日、夜食を納めて重宝がられた」(石川会長)という。

次に始めたのが結婚式場。
「昭和30~40年頃だと思うけど、それまで結婚式といえばほとんどが畳の上で和式。
場所も公民館や自宅が普通だったので旅館での結婚式は当時珍しく参加人数も20~50名くらい、一人当たり費用も800円ぐらいだった」(石川会長)という。

「料理の支度や式の準備に忙殺されるお手伝いの人達からも喜ばれ、一人当たりの費用も900円程度で年間20組ほどをお引き受けした」(石川会長)という。
当時、2階建てだった建物の2階を洋室にしたのも珍しかったようだ。

特筆すべきはまだある。
受託する結婚式の増加を見越して、当時まだ珍しかったマイクロバスの運転免許もいち早く取得し自ら出席者の送迎役も担当し参加者の好評を得たことだ。
一方で、高校卒業と同時に入団し社長を交代する年まで長年務めた地域の消防団でも雲仙・普賢岳噴火災害時には団長として活躍するなど経営以外でも数々の“武勇伝”をもつ石川会長だが、平成19年4月には「一切の権益を次(景士氏)に譲って社長を交代、以後は一切口を出さずまかせている」という。

その同社も平成3年10月には(株)ウエディング石川に社名を変更、現在は業界でも最先端をいくニューヨーク・スタイルの結婚式場「ザ・マーキーズ」の展開など次々に新機軸を打ち出し注目を集めている。

受け継がれる“おもてなしの心”

館内のコーナーには従業員が道端で見つけて摘んできた季節の花も折々に飾られるなど、隅々にまで配慮が行き届いた同社だが、そのひとり一人に根付いているのがおもてなしの心だ。

しかし平成3年の普賢岳噴火直後には道路遮断のため長らく休館状態が続いた。
「当時60組あった結婚式の予約も全て断らざるを得なくなり、一軒一軒に酒と菓子折りなどを携えてお断りに回った」(石川会長)という。

その後、平成8年6月3日の噴火終結までは満足な営業も出来ずに困っていたというが、なんと営業を再開すると徐々に結婚式の申し込みが増加していったという。
以前、お断りに回った時の真摯で誠実な対応ぶりが口コミで広がっていたのだ。
以後、「ピーク時には年間2 20~230組の結婚式をこなしていた」(石川会長)という同社だが、今も同社への見学希望はお客様だけでなく半島外の同業者からも多いという。

以前から北海道を始め全国各地の観光地などを巡って「掃除のおばさんから受けたちょっとした気遣いや振舞いなども参考になった」(石川会長)という。
こんな謙虚な姿勢が、「今も従業員を慕ってマーキーズを指名してくださる方も多い」(石川会長)という結果となって現れている。

ザ・マーキーズ/株式会社ウエディング石川
[南島原市深江町丙760]

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