記事
7.152024
島原市シティインフォメーション
島原城築城400年も、後半戦に入りました。
島原市はよく7万石の城下町と言われ、島原城がそのシンボルと言われます。
松倉重政が1万石の大和五条藩主から、1616年4万石の大名として移封して来たのは今の南島原市北有馬の日野江城主でした。
すなわち、初代肥前日野江藩主は島原半島地域の殿様でした。
2年後の1618年、当時の一国一城の制度にしたがって、従来あった原城(南有馬)と日野江城を廃して、島原城の築城を始めました。
4万石の殿様が10万石並みの城を建てることから厳しい年貢の取りたてや、キリシタンの弾圧などが島原の乱の原因とも言われていますが、乱の制圧後、島原藩は2代に渡り譜代大名の高力家に継がれたことから、幕府はキリシタンや九州各地の外様大名の目付役に任じたと思われます。
さらに1669年、譜代で幕府に近い松平忠房に豊後高田3万石を加増し、島原藩主としたことで、天領であった長崎や出島の目付役としての期待が大きかったと思います。
これが島原藩7万石の始まりで築城から45年後のことでした。
明治に入るまで途中、宇都宮藩戸田家2代を挟み、13代の松平家が続きます。
島原城400年の中の戦国の時代歴史も島原城は見守ってきました。
そして今回、歴代殿様の書を中心とした高来華(たかくのはな)展が開催され、殿様の生きざまや感性に触れることが出来ました。
いよいよ秋に向け様々な催しが展開されます。
ぜひ皆さん、島原城の歴史ロマンに触れてください。